航空機インテリアデザイナー・
元女子アイスホッケー日本代表
札 珠恵さん
女子アイスホッケー日本代表のゴールキーパーとして世界の舞台で活躍した札さん。感性と探究心を軸にデザインの世界へ進み、現在は日本人女性初の航空機インテリアデザイナーとして国際的に活躍しています。オマーン航空やアメリカン航空のキャビンデザインを手がけ、数々のデザイン賞を受賞。スポーツで培った集中力と情熱を原動力に、挑戦を重ね、自らの力で新たな可能性を切り開いてきました。
取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供
STUDIO TAMA
航空機インテリアデザインのうちCMF(カラー・素材・仕上げ)に特化。シート、バーユニット、ギャレーなどのキャビンのインテリアデザインや照明デザインのほか、エアラインのブランディングも手掛ける。 📧tamae@studiotama.net 、studiotama.net
挑戦の原点は、小さなリンクから
北海道・長沼町に生まれ、苫小牧で育った札さんにとって、アイスホッケーは幼い頃から身近な存在だった。冬になると氷が張り、スケートを楽しむ子どもたちの姿が当たり前にある——そんな土地で育った。「ゴールキーパーになりたい」と強く思ったのは8歳の頃。テレビ中継で見た試合に心を奪われ、「あのゴールキーパー、かっこいい。いつか自分もリンクに立ちたい」と憧れた。しかし、すぐにホッケーを始められたわけではない。シングルマザーの母は美容師として日々懸命に働き、家計を支えていた。その姿を見て育った札さんは「迷惑をかけたくない」という思いが勝り、夢を口に出せなかったという。
転機が訪れたのは15歳のとき。友人から苫小牧の女子アイスホッケーチーム「苫小牧ペリグリン」でゴールキーパーを探していると聞き、「私にプレーさせてください」と申し出た。すると、慢性のゴールキーパー不足に悩んでいたチームは大歓迎してくれ、用具まで貸与してくれるとのこと。夢への扉が一気に開いた。初めて身につけた防具は想像以上に重く、思うように動けなかったが、心の中は喜びで満たされていた。チームには五輪のスピードスケーター出身の選手が多く、最年少だった札さんを温かく迎えてくれた。練習後に声をかけ、アドバイスをくれる先輩たちの存在が、彼女を大きく成長させた。「本当に素敵な先輩や仲間に恵まれました。厳しい中にも支え合う空気がありました。あの頃の経験が、今の自分の原点です」。練習はハードだったが、ゴールを守る責任と面白さ、そしてチームで戦う喜びを学んでいった。やがて全国大会で優勝を果たし、プレー3年目には日本代表候補に選出される。
苫小牧で過ごした日々は、決して華やかではなかったが、厳しさ以上に人の優しさにあふれ、夢を支える小さな絆があった。「リンクに立つと、全てを忘れて夢中になれた。あのとき感じたゴーリーをプレーする楽しさは、今も心の中に残っています」。その思いが、後に札さんを世界の舞台へと導く原動力となっていった。
全日本の正ゴールキーパーとして、初めて世界選手権に出場する背番号50の札さん(1987年)
世界女子アイスホッケー選手権(オタワ)でオールスターに選出された。2列目左から2番目が札さん(1990年)
建築とアイスホッケー、二つの夢を同時に追いかけた日々
高校卒業後、札幌で建築を学んだ札さんは、竹中工務店北海道支店に入社した。最初は事務職としての採用だったが、持ち前の感性と手先の器用さを見込まれ、次第に設計の仕事を任されるようになる。初めて手がけた模型が社内で評価され、さまざまな建築プロジェクトにも携わった。「建築を作り上げるプロセスに魅力を感じ、どんどんのめり込んでいきました。自分の手で形が生まれていくことに喜びを感じていました」
竹中工務店札幌支店のデスクにて(1997年)
一方で、アイスホッケー選手としても快進撃を続けた。平日の勤務後や週末、片道2時間をかけて苫小牧まで通い、全日本代表としての活動を続けた。会社の業務とは関係ないにもかかわらず、人事部は「全日本に選ばれるなんて名誉なことだから、行っておいで」と理解を示し、試合の日には快く送り出してくれた。「周りの方々がいつもサポートしてくれたおかげです。仕事とアイスホッケー、どちらかを諦めるという選択肢は、私の中にはありませんでした」。全日本女子選手権ではチームを連続優勝に導き、1987年には第1回女子世界選手権大会に出場。1998年の長野五輪では、日本代表のゴールキーパーとして選手登録された。
ゴールキーパーは孤独だ。どんなにファインセーブを重ねても、たった一度得点を許しただけで試合に負けることもある。現役を離れた今、札さんは当時の自分をどのように振り返っているのだろうか。「ゴールキーパーは自分との闘いです。どんな結果であっても自分の責任として受け止める。だからこそ、成長できたのだと思います」。建築の現場で磨いた論理性と感性、そしてホッケーで培った集中力と精神力。その全てが、後のデザインキャリアへとつながっていった。
アメリカ人の夫との結婚を機に、シアトルへ拠点を移した。当地でも女子アイスホッケーチームに所属し、翌年の全米大会で5位入賞。その後、シアトルの男子2部リーグでプレーするという得難い経験もした。近年ではNHLシアトル・クラーケンのイベントでアメリカ代表金メダリストらと共にパネルディスカッションに登壇し、元日本女子アイスホッケー代表として経験を語っている。
長野五輪の日本代表チーム合宿にて(1998年)
女子アイスホッケー全米大会で5位に入賞(ゴーリーセーブ率は2位)。前列左から2番目が札さん(2000年)
異国の地で新たなキャリアを切り開く
航空機インテリアデザインの分野には多様な専門職があり、札さんの専門領域は「CMFデザイン」。CMFとは、カラー(色)・マテリアル(素材)・フィニッシュ(仕上げ)の略で、キャビンの印象や質感を左右する重要な要素を担う。エアラインのコーポレートカラーやその国の文化を反映しながら、シートや壁面の質感、照明のトーンまで、全てを通じて乗客の体験をデザインするのが札さんの仕事だ。
「海外に行くとき、飛行機に乗った瞬間に『ああ、これからこの国に行くんだな』と感じることがありますよね。エアラインは言ってみれば『空のカルチャーアンバサダー』。その国らしさをデザインで表現するのが私の仕事です」と札さんは語る。
シアトルに移住して間もない頃、建築事務所で働き始め、空間と素材の関係を探る日々が続いた。やがて「航空機インテリアデザイナー募集」の告知を目にし、「幼い頃から飛行機に憧れていた」という純粋な動機で応募。これが現在のキャリアにつながる最初の一歩となった。
シアトルで入社したのは、航空機デザイン業界でも歴史ある企業だった。ボーイングやエアバスなど世界各国のプロジェクトに携わり、インダストリアルデザイナーやエンジニアとともに経験を積むと、徐々に責任ある仕事が回ってくるようになる。最初に任された小規模案件では、マテリアル選定からプレゼンテーションまで一人で幅広く担当した。転機となったのはオマーン航空のファーストクラス・ラグジュアリーキャビン開発プロジェクト。わずか3人のチームで挑んだこの案件では、安全性・快適性・文化性の全てを考慮したデザインを追求。「色の選定や素材ひとつを決めるにも、何度も試験と検証を重ねました」と振り返る。「キャビンインテリアのテクスチャ、カラー、マテリアル、照明——その全てが乗客の心理に影響します。ナショナル・キャリアはその国の文化の顔。その国らしさを空間体験として表現するのが、デザイナーとしての使命だと思っています」と語る。
アメリカン航空の機内デザインで用意したインテリアボード
同航空デザインチームと共に
札さんがデザインした同航空フラッグシップ ファースト
数々のデザイン賞を受賞したオマーン航空ファーストクラス
初飛行に搭乗し、座り心地を確かめる札さん
完成したボーイング787新型機は、洗練されたインテリアデザインが国際的に評価され、複数のデザイン賞を受賞した。これをきっかけに、アメリカン航空をはじめ世界的な航空会社のプロジェクトにも携わるようになる。5年がかりの大規模プロジェクトでは、デザインだけでなく、エアラインのブランド価値を高める総合的なブランディング戦略にも関わった。
札さんの現在の活動領域は商用機にとどまらない。プライベートジェットやeVTOL(電動垂直離着陸機)、さらには宇宙関連プロジェクトまで広がり、札さんのデザインは「地球の空」を越えつつある。「航空機デザインは、人の感覚を導く仕事だと思います。乗客が快適に過ごせるよう、エアラインと綿密に協議を重ねて形にしていくことがデザイナーの使命です。できることを丁寧に積み重ねていくうちに、自然と次の扉が開いていきました」と札さん。
クラーケン・アイスプレックスで女子およびジュニアのホッケー選手を招いたイベントが開催され、金メダリストたちと共にパネリストとして登壇した(2023年)
札さんのデザイン哲学を表す言葉がある。「Skate to where the puck is going to be, not where it has been(パックがあった場所はなく、パックが行くところへ滑れ)」。尊敬するアイスホッケー界のレジェンド、ウェイン・グレツキーの言葉だ。過去の成功や既存の枠にとらわれず、これからの空の体験をデザインする。アイスホッケーで培ったこの感覚は、今も札さんの中に息づいている。「過去ではなく、未来の体験を」。札さんは今日も、未来へ向かう空をデザインし続けている。





















