Home インタビュー インタビュー特集 長野 弘子さん〜米ワシント...

長野 弘子さん〜米ワシントン州認定メンタルヘルスカウンセラー

長野 弘子さん
〜米ワシントン州認定
メンタルヘルスカウンセラー〜

今年2月に連載100回を迎えたソイソースのコラム「子どもとティーンのこころ育て」を執筆する長野弘子さん。カウンセラーになる以前は、ニューヨークの最前線でジャーナリストとして活躍した異色のキャリアの持ち主です。常に好奇心とワクワクに導かれ多くの人の話に耳を傾けてきた弘子さんに、今度は編集部がお話を伺いました。

取材・文:三輪朝子 写真:本人提供

長野弘子■ワシントン州認定メンタルヘルスカウンセラー(認定ID:LH60996161)。ニューヨークと東京をベースに、ジャーナリストとして多数の記事を寄稿。東日本大震災をきっかけに2011年にシアトルへ移住し、災害や事故などでトラウマを抱える人々をサポートするためノースウエスト大学院で臨床心理学を専攻。米大手セラピー・エージェンシーで5年間働いた後に独立。現在、マイクロソフト本社の常駐セラピストを務める。
www.lifefulcounseling.com
hiroko@lifefulcounseling.com

豊かな自然に抱かれて
読書と空想三昧の子ども時代

熊本県熊本市出身。豊かな自然の中で、弘子さん曰く「放任というか放置」主義の両親のもとのびのびと育った。放課後はもっぱら近所の子どもたちと空き地に集まって日が暮れるまで遊び、家では少女漫画に夢中になった。遊びを自分たちで考えたり、空想の世界に浸ったりすることが大好きな子どもだった。進学した地元の高校は読書が盛んな進学校で、多くの本に親しんだ。本多勝一らの著書を通してジャーナリズムの世界を知り、純文学にも挑戦した。良い本があれば友人同士で薦め合い、多感な時期に幅広い作品に触れた。雑誌の編集者になる夢を抱いたのもこの頃だ。こうして培った語彙力や表現力、想像力、そして他者への共感力は、その後の仕事にも大いに生かされることになる。

大学も地元の熊本大学に進学。自然と都市の利便性が共存する環境で育ったこともあり、進学を機に大都市へ出たいという思いはなかった。家族や友人に囲まれ、大好きな地元で暮らす日々に十分満足していた。

小学生の頃は漫画家になるのが夢だった。暇さえあれば絵や文章をかいて過ごす日々は幼い頃から今も変わらない

絵本『地球を救った猫』。投稿マニアだった弘子さんが中学生の時に書き、地元紙に掲載された小説を、東京で出会ったイラストレーターの友人とコラボして絵本に

運命を変えた海外研修「アメリカ大陸横断」

そんな弘子さんに転機が訪れたのは19歳の夏休み。友人に誘われ、大学の英語教員が企画した2カ月間のアメリカ大陸横断研修に参加した。ロサンゼルスから各地でホームステイを重ね、長距離バスのグレイハウンドでニューヨークを目指す壮大な研修だった。インターネットも携帯電話もない時代。見知らぬ土地でバスやホストファミリーの迎えを長時間待つなど、今では考えられないような経験もした。

アメリカのさまざまな景色や出会いを経て2カ月、旅の終着点ニューヨークで弘子さんは運命的な感覚に包まれる。

「バスを降りたとき、風がぼぁぁぁーっと吹いたと思ったんです」。それまで旅してきた町とはまるで違う空気がそこにはあった。街を行き交う人々の強い意志を感じさせる表情。自信に満ちたたたずまいと歩き方。その圧倒的な空気に心を奪われ、「私の来るべき場所はここだ!」と直感したという。

「私はニューヨークに住むと決めたんです」

熊本へ帰ると、「私、ニューヨークに住むけん」と興奮気味に宣言。両親には「またアメリカかぶれして……」と一蹴されたが、そのときすでに、弘子さんの中ではニューヨークへ行くための人生設計が始まっていた。

目指せニューヨーク!

ニューヨークに住む! そう決めた弘子さんはその実現までのロードマップを一気に描いた。まずは資金を貯めること。そのためにきちんと就職すること。そして熊本から一気にニューヨークへ渡るのではなく、日本人として海外へ出るにふさわしい感覚を身につけるため東京に出ること。

大学卒業後は東京の出版社に就職し、編集兼営業として雑誌作りのイロハを学んだ。期間は最初から最長でも2年と決めていた。高校時代に読書に明け暮れ、雑誌編集者に憧れていた弘子さんにとって、その仕事は夢を形にしながら資金も貯められ、大都会での生活も経験できる、まさに計画通りの一歩だった。

就職した当時はバブル終焉の頃で、職場ではまだ「飲みニケーション」が当たり前の時代。ニューヨークを目指して節約生活に徹していた弘子さんは誘いを断り続け、2年間で参加した飲み会は「新年会と自分の送別会だけ」という徹底ぶりだった。

そんな弘子さんが唯一自分に許したご褒美がヒップホップのレコードだ。渋谷のレコード店に足を運び、新譜を買う。それを聴きながらニューヨークで暮らす自分を想像し、目標をかなえる気持ちを奮い立たせていた。

そして2年——。いよいよその時がやってきた。

ジャーナリスト時代はほぼ一日中取材と執筆に明け暮れ、刺激的で充実していた。音楽から社会問題、テクノロジーまで幅広いテーマを扱った

ニューヨークでは政治活動に没頭し、差別や社会問題を扱う月刊誌『edge』を発行したほか、銃規制を求めるデモにも参加

念願のニューヨーク。新たな扉を開いた出会いと経験

2年制のカレッジに入学した。場所はブロンクス。大好きなヒップホップ発祥の地だ。それだけで胸が高鳴った。レコードを聴きながら思い描いていた世界が、そこにあった。学生ビザ申請時には領事館職員から「アメリカで一番危険なエリアだよ、分かってる?」と念を押されたが、怖さはなかった。当時はまだ治安の悪い地域も多く、引っ越して間もなく、いわゆるゲットーと呼ばれる地域の現実を知った。道端で炎上する車を見たり、夜のパーティー帰りに銃声を聞いたりもした。エイズで命を落とす友人もいれば、医療費が払えず病院に行けない友人もいた。華やかな表舞台には出てこないリアルなアメリカを肌で知る毎日。休日に公園で行われるヒップホップのライブに通っては、アーティストが紡ぎ出すリリックに社会の周縁に置かれた人々の現実や叫びを感じ、心が揺さぶられた。あらゆる体験が弘子さんの好奇心や共感性、探究心をさらに育てていった。

就職活動に入る頃、アメリカではドットコムバブルが到来していた。インターネットの普及により世界中の情報がリアルタイムで届くようになり、新しいビジネスや情報発信の形が次々と生まれていた。三井物産と大日本印刷によるベンチャー企業がウェブ出版社を立ち上げ、ニューヨークで編集者を募集していると知り応募。東京での経験やアメリカで培った知識を強みに採用され、全米から集まる膨大な記事を選び、翻訳して日本に送るという日々が始まった。共同通信や時事通信、インプレスなどへニュース記事を送り、次第に署名記事も書くようになった。書きためた記事は後に『シリコンアレーの急成長企業』として出版された。

ラジオ番組やインタビューを通じて多くのアーティストや著名人と出会った。右上から、つきよみ、ボサノバ歌手のジョイス、シンガーソングライターのジャック・ジョンソン、ハーバード大学教授のローレンス・レッシグ、フリーソフトウェア活動家のリチャード・ストールマン

著書の数々。本の執筆のほか翻訳や映画の字幕なども幅広く手掛ける

インターネット広告が急成長する中、新しい広告媒体を学ぼうと、日本の広告代理店関係者が大挙してニューヨークに押し寄せた。弘子さんはこうした会社のアテンドやサポートもこなすようになる。ドットコムバブルの勢いはすさまじく、新たなビジネスモデルが次々と生まれる熱気の中で、取材、執筆、編集、コーディネートと仕事を広げて独立。革新的な技術が次々と生み出されるシリコンバレーに対し、経済、アート、文化といったコンテンツ重視の企業がひしめくことから「シリコンアレー」と呼ばれたニューヨーク。新時代を象徴する企業やビジネスモデルを積極的に取材し、活動の幅を広げていった。

ビジネス記事を発信する一方で、弘子さんにはもう一つのライフワークがあった。人種、ジェンダー、宗教、差別など、多様な人々が暮らすニューヨークだからこそ見えてくる社会問題と、そこから生まれるサブカルチャーを取材して伝えることだ。社会的なメッセージを詩に乗せて表現するポエトリー・スラムやさまざまなライブシーンに足を運び、黒人宗教団体の集会にも出席した。ハーレム在住の日本人ジャーナリストと共に、政治や社会問題を扱うフリーペーパーを発行したこともある。大々的に語られることのない人々の声を拾い、その思いを筆で伝える——それは弘子さんにとって何より楽しく、充実した時間だった。

結婚、シアトル、そして日本へ

結婚を機にシアトルへ移住。刺激とやりがいに満ちたニューヨークからの環境の変化は想像以上に大きかった。しかも移り住んだのは12月。一日中どんよりとした冬のシアトルに、すっかり気持ちが沈んでいった。ニューヨークが恋しくなり、たびたび訪れたという。

美しい夏ですら、当時まだ子どものいなかった二人にとってシアトルは物足りなく感じられた。夫はマイクロソフト勤務で東京への異動が可能だったことから、思い切って東京へ移住した。弘子さんはフリーランスとして活動し、TOKYO FM系のラジオ番組で司会を務め、増田真樹氏との共著『ブログ』を出版。ペットロボット「AIBO」のデザインを手掛けたアーティストの空山基、WWWの生みの親ティム・バーナーズ=リー、グーグル創設者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンなど多数の著名人を取材し、執筆記事は3,000本を超えた。その後、出産と子育てを経験。ママ友もでき、新たな人生のステージに入った。まさに順風満帆に思えた東京での暮らしだったが、東日本大震災が大きな転機となる。これからの生き方を見つめ直し、シアトルへ再移住することに。アメリカを離れて10年が経過していた。

アメリカでセラピストとして再出発

東京での満ち足りた生活を一変させた東日本大震災。弘子さんは「人生が狂った。ある意味、挫折経験でした」と振り返る。便利な東京でたくさんの友人に囲まれ、家も購入したばかり。ママ友たちと子育てを一緒に楽しみながら、こんな暮らしがずっと続くのだと思っていた。しかし、その思いは震災で一瞬にして覆された。

親を亡くした子、子を失った親——すべてを一瞬で奪われた多くの人々や甚大な被害を目の当たりにし、心の傷を抱えた人たちへのサポートの必要性を感じた。「これからは癒しの仕事が絶対に必要になる」——そう直感した。アメリカではカウンセリングが社会に広く根付いていることも知っていた。ならば、と一念発起。シアトルへの再移住に踏み切って本格的に学ぼうと決意した。

大学院でカウンセリングを学び、資格を取得。経験を積むほど、この仕事の奥深さと魅力に引き込まれていった。脳神経学の知見やさまざまな心理療法を用いて、一人一人に合ったアプローチを一緒に考える。子育てグループも立ち上げ、心理学のセミナーや講演会を日米で開催。2016年の熊本地震では現地に飛び、仮設住宅やテント避難者へのカウンセリングも行った。

ノースウェスト大学大学院で臨床心理学を専攻。卒業後、3000時間の臨床経験を経て正式にセラピストに。子育てをしながらの勉強は大変だったが、家族や友人の存在が心の支えとなった

コロナ禍には長男が自己免疫疾患を発症。高校には3カ月しか通えず、入退院を繰り返して生死の境をさまよった。長男を支える中で、持病を抱える当事者と家族という立場を経験し、人々の痛みにより深く寄り添えるようになったという。今も自分の知らないことの多さを痛感し、学び続けている。

テック企業の常駐セラピストとして

ある日、アマゾンで社員のメンタルヘルス支援に携わる人の話を聞く機会があった。かつて自分が取材してきた最先端のテック業界で働く人たちが、メンタルケアを必要としていることを知った。その後、マイクロソフトで常駐セラピストを募集していることを知ると、迷うことなく応募。新たなキャリアへ踏み出した。

時代を先取りしてきたテック系ワーカーのカウンセリングは、かつて自分が取材した人たちの10年後の話を聞かせてもらうような体験だという。華やかな舞台で活躍している人たちが、その裏で抱えている悩みや葛藤に耳を傾ける日々。まさに点と点がつながるような感覚だった。

「人生に無駄な経験は一つもないんです」

弘子さんはそう実感している。クライアントの話に耳を傾けながら、その人が職場では日々どんな表情で過ごしているのかを想像する。それは、かつてビジネスの表舞台で活躍する人々を取材してきた経験がある弘子さんならではの視点でもある。

セラピスト

セラピスト仲間と。大学院卒業後に勤務したコミュニティー・メンタルヘルス機関「SOUND」ではDV被害者を担当し、トラウマワークの基礎をしっかりとたたき込まれた

過去からの小さな積み重ねがつくる今の自分、
これからの自分

右から次男(16歳)、弘子さん、長男(20歳)。母の日に手作りのパイを焼いてくれたり、弘子さんが関わるミュージカルでもスタッフとして力を貸してくれる優しい息子たち

想像力が豊かな子どもだった。幼い頃は窓から街を行き交う人々を眺め、その家族や暮らしを想像した。大学時代には街角に立つユダヤ人の宝石商と仲良くなり、日がな一日彼らの横で街ゆく人々を観察したり、彼らのためにニューヨークでジュエリーの買い付けをしたりもした。異なる文化や価値観への好奇心はヒップホップを通じて知った黒人文化や人種、ジェンダー、先住民、LGBTQ2+など、マイノリティとされる人々への関心にもつながっている。想像力を働かせ、相手に寄り添う。その延長線上にカウンセラーとしての弘子さんがいるのも納得である。想像力や共感力、書くことで磨いた表現力、ニューヨークで重ねた経験や見識——その全てを生かし、今、これまでの人生の伏線を回収するかのように、クライアント一人ひとりに向き合っている。

かつて母親に「あなたって本当にわがままよね」と言われたことがある。今思うと「わがまま=我がまま」。自分の思うままに信念を貫いてきた人生だったのかもしれない、と笑う。

子育てもひと段落しつつある今、コーラスや人形劇、香道、書道、俳句など、気の合う仲間と好奇心や楽しさをとことん追求している。二次創作のイラストや小説を発表し、最近では日本語ミュージカル『赤ずきん 〜アナザーストーリー〜』の舞台脚本も手掛けた。常に自分の中にある好奇心に導かれ、学び、表現し、人に寄り添う姿勢はこれからも変わらない。

日本語ミュージカル『赤ずきん 〜アナザーストーリー〜』。人形劇グループ「耳文庫」の30周年を記念し、帆足ゆかりさん、キルシュ絵梨子さんと共に企画。4月12日にベルビュー・カレッジのカールソン劇場で上演され、200人以上を動員。10月10日(土)のジャパンウィークでの再演も決定!

人生を楽しく生きるコツ 自己対話と……推しキャラ?

最後に、人生を楽しく生きるコツを弘子さんに聞いてみた。

「人生は、毎日をいかに気持ちよく過ごせるかがカギなんです」

そのために大切なのが自分との対話だ。「自分はどうしたいか」を問いながら一つ一つ決めていく。解決できないことはいったん棚上げし、「今は考えない」と脳に指令する。うまくいかないときは、そんな自分を許してあげる。つらい状態が続くと「ストレスホルモン」が出る一方、自分を愛おしむと「幸せホルモン」が放出される。自分を縛るものからできるだけ解放し、楽にしてあげることが大切なのだ。嫌でもやらなければならないことは、「これをやることで自分が成長し、レベルアップできる」と捉え直す。見方を変えれば「苦行」は「挑戦」へと姿を変える。たとえばサッカーは「手を使ってはいけない」というルールがあるからこそ、「手を使わずにどうゴールを狙うか」という創造性や楽しさが生まれるのだ。そうして楽しく過ごす機会が増えれば、「今日一日楽しかったな」と思える。それが一週間、一カ月、一年と積み重なり、人生になる。

もうひとつ。弘子さんは自分の中に「推しキャラ」を住まわせているという。疲れたときには、「頑張ってるね、お茶飲みなよ」といたわってくれるのだそうだ。最も長く付き合う相手も自分の一番の味方も自分自身。そう考えると、いかに自分と仲良くできるかが楽しく生きるコツなのかもしれない。そのための相棒ともいえる推しキャラ。早速今日から住まわせてみませんか?

「今日も頑張ってるね。お茶でも飲もうか」

 

三輪 朝子
高校留学後、ウェスタンワシントン大学卒業。ソフトウェア会社でローカリゼーション業務を経て、ワシントン州日米協会でプログラムディレクター、エグゼクティブディレクターを歴任。現在は翻訳・通訳、日本メディアの海外取材・ロケコーディネーターとして活動中。シアトル在住。