書家・文字文化文筆家 宇佐美 志都 さん
3歳から書道を始め、すでに書道歴45年になる宇佐美さん。たおやかでありながら凛としたその佇は、まさに大和撫子そのもの。大学生時代に家業を継ぐこととなり経営者としての顔も併せ持つ。出産・育児を経て新たな境地を切り拓くなど、活躍の場を常に広げています。「書を通して自分の中に揺るぎない根幹を築けたからこそ、新しいことにも挑戦し続けられる」。そう顧みる宇佐美さんに、書の神髄について語ってもらいました。
取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供
宇佐美志都■ 福岡県北九州市出身。書家・文字文化文筆家。明治時代から続く醸造業、宇佐美本店の4代目社長。書道教室を主宰していた母親の手ほどきを受け、3歳で書道を始める。福岡教育大学特設書道科卒業。漢字学の権威、白川静博士が理事長を務めていた文字文化研究所で「文字の成り立ち」について学び、最年少で文字文化認定講師となる。2009年にロンドン芸術大学へに留学。2010年に帰国し東京にギャラリーを開設。全国各地の企業や団体で講演を行うなど、活動の場を拡げる。2012年より日米を往来。年内にワシントン州に拠点を戻す予定。
書家になる天命に導かれて
私たちが日々使っている漢字。日本では小学校入学と同時に習い始め、一生のうちに相当数の漢字を覚えることになる。だが、実は漢字を使われてきた地域は世界的に見ても稀だ。「中国大陸、朝鮮半島、そして日本。いわゆる『東アジア漢字文化圏』です。漢字の興りは中国大陸ですが、この地域一帯に漢字文化が醸成されてきたと書道界では捉えており、この東アジア文化を継承することで恒久平和につながれば、と私自身は意識しています」と宇佐美さんは話す。
3歳から筆あそびを始めた宇佐美さんだが、書の道を職業として明確に意識したのは中学1年の頃。将来の夢を聞かれ、「書道の先生になりたい」とはっきり答えた。やがて、迷うことなく福岡教育大学特設書道科へ進学する。全国でも数少ない書道教員免許が取得できる国立大学の一つだ。これには、母、幸子さんの強い後押しがあった。当時の書壇では、漢字または平仮名のどちらかを選択するのが通念。道具や紙が違うだけでなく、「手が違う」のだという。幸子さん自身も漢字を専門としていたが、娘には「どちらもできる人になってほしい」と願い、幅広く学べる道を応援してくれた。

味噌樽とともに。10カ月の宇佐美さん

3歳の七五三のとき。母の幸子さんと
書道がほかの芸術と異なる点は何か。それは「鑑賞眼を鍛えると同時に、思いや思想を言語化して的確に伝える」という明確な目的があることだ。「文字は喋り言葉を記録し、後世に伝えるために生まれたもの。そこにこそ、文字の使命があるのです」と宇佐美さんは力を込める。感情や思想などの内面を自由に表現するアートとは一線を画すものなのだ。「思いを書にすることが、自分の体質に合っていました。ですから、長く続けていても、飽きることはありません」。さらに「むしろ、同じことをやっていても、時代が変わってくれるおかげで、自分の職業を違った価値観で見ることができ、いつでも自分の役目を見出せるのです」と続ける。「ずっとやってきたからこそ、時代の変化をありがたく感じます」

田んぼで作業をする宇佐美さん(手前先頭)
宇佐美さんは書家としての歩みを順調に進めながらも、決して安住することはなかった。大学卒業後、高校の書道教員の職を得たが、「もっと漢字の根幹を学びたい」という思いが募り、京都の文字文化研究所の門をたたいた。そこで漢字学の第一人者である白川静博士に師事。「朝10時の講義に出るため、定期的に小倉から新幹線に乗って3年間通っていました。確か、6時32分発でしたね。今でもよく覚えています」と笑いながら話す宇佐美さん。京都での講義後、そのまま東京での書家活動に赴くことも多々あったという。そんな生活を続け、最年少で文字文化認定講師に任命された。

中国各地をのべ20地域以上歴訪。研究者や同級生らと山西省の雲岡石窟へ(1999年)

文字文化認定講師授与式にて白川静博士とともに。宇佐美さんの知見や理念を築いた勉学の素地(2004年)
アナログで鍛えた探究心-子育てで広がる新しい世界
順風満帆に見える宇佐美さんの人生だが、大きな試練もあった。「一番つらかったのは、母が他界したときです」。25歳のとき、幸子さんは病気でこの世を去った。56歳だった。宇佐美さんにとって、母親は書の世界にいざなってくれた師匠でもある。母親の死に際し、「死に様は生き様。生き様は死に様」との言葉が脳裏に浮かんだ。自分も尊く、一心に生きよう、そう決意した。
大学在学中には父親が脳梗塞を患い、宇佐美さんは20歳前ながら家業を継ぐことに。「長子ゆえ、子どものころから、周囲の大人が従事していることも自分のこととして捉え、常に跡継ぎとしての当事者意識を持って暮らしていました」
大きな転機となったのは1年間のイギリスへの留学。宇佐美さんにとって海外渡航といえば、中国やモンゴル。常に書道関連だったため、西洋文化を体験したいという気持ちがあった。そこで、社会人を受け入れているロンドン芸術大学に留学。テキスタイル(布地や繊維などを広く意味する)とファインアートを専攻したが、そこにはこんな経緯があった。さかのぼること数年前、宇佐美さんの個展に足を運んだアパレル会社の担当者から声がかかり、コムサイズムの浴衣のデザインを依頼されたのだ。2006年、宇佐美さんは漢字の成り立ちを女性向けの浴衣柄にして、5パターンを用意。いずれも即完売となった。好評を受け、翌年にはキッズやメンズのデザインも加わった。「書を生活の中に生かせたことに大きな喜びを感じました」。悠久の歴史を持つ書の世界が、現代の生活と融合。書の表現方法の一つとしてテキスタイルの分野に挑戦したことで、新しい世界の扉が開いた瞬間だった。

ロンドン芸術大学にて。英国生活では、欧州各地の美術館巡りも(2009年)

コムサイズムの浴衣。宇佐美さんが漢字の成り立ちを柄としてデザインした(2006年)
2010年に帰国後は東京にギャラリーを開設し、全国で講演活動も展開。講演では主に経営者を対象に、東アジアにおける漢字の成り立ちについて話す。日本人としてのアイデンティーと深く関わりのある漢字の歴史を振り返ることで、自分自身を顧みる機会にしてもらうのだそうだ。そうした活動を通じて、「書」が単なる芸術表現にとどまらず、社会や人々とつながっているという確かな手応えを実感する。「自分の書が、世の中と多面的な接点を持つことができると気づき、大きな自信につながりました」と宇佐美さんは語る。
さらに人生が変わる大きなきっかけとなったのが、出産と育児だ。縁あって2012年からカリフォルニアに往来するようになり、2014年、シアトルに転居。翌年には娘を出産し、2017年まで同地で暮らした。それ以降、北九州とワシントン州を子連れで行き来する生活を続けている。母となった宇佐美さんがシアトルに戻ってくるたび、ふと脳裏に浮かぶ光景がある。小学4年のときに体験した「山村留学」の記憶である。山口県のとある村で親元を離れて1年間、稲を植え、川で鮎を釣るという昔ながらの生活を送った。村おこしを目的に村が主催した企画。ひのき造りの寮で全国から集まった約20人の児童たちと一緒に暮らした。工業都市である北九州市で生まれ育った宇佐美さんとって、山や川と共に暮らす生活は、まるで昔ばなしの舞台のように感じられたという。「のどかな日本の原風景でした。あのときに心に深く刻まれた経験が、ワシントン州で子育てをしていると蘇よみがえります」
2016年および2017年はベルビュー図書館で、また近年は現地の小学校で、書道をボランティアで教えるなど、地域の子どもたちと関わる機会も増えた。そんな宇佐美さんは、子育てを「自分自身もこれからの時代をつくっていける一員であることを自覚できる機会」だと捉えている。当然ながら、子育て中は仕事に割ける時間は少なくなるが、その煎じ詰めた時間の中で、「どう自分を見失わずに、活路を見出すか」が問われるのだという。昨今は、社会構造変革の岐路に立たされているが、「課題のない社会など、どんな時代にも存在しません。いつ、どこで生まれようと、『制約のある中で生きる』ということは、多かれ少なかれ皆同じ。だからこそ、自分の中の葛藤に目を向けて、自分にとっての本質を見極めることが重要」だと考えている。

現地校で、漢字の成り立ちと書道をボランティアで教えている。漢字文化圏でない言語体系の子どもたちへ、東アジア文化理解の願いが発端。今後も継続したいライフワーク

出産育児時の恩返しをコミュニティーへ、という思いから「筆あそび教室」をボランティアで、ベルビュー図書館にて毎月開催していた(2016年)
悩んでいるとき、苦しみから抜け出せないときには、「お掃除ロボットが充電基地に戻るように、いつでも帰れる場所がある人はぶれない」と笑みを浮かべながら話す。宇佐美さんにとって、「文字の成り立ち」が帰る場所であり、根源なのだ。「志都」と命名してくれた祖父の思いがごとく、自分の「都」を「志す」人間として生きる姿勢が、また次の扉を開けていく。
書道と料理の共通点
宇佐美さん料理の腕前は、プロ顔負けだ。それもそのはず、家業が醸造業であり、和調味料の味の開発も常に手掛けているからだ。料理人には玄人向けの話を、一般消費者には親しみやすい言葉で、など伝え方にも気を配る。風味や味の違い、旬の食材との相性、そして伝統的な調理法からトレンドの最前線まで、料理の根源を知り尽くしていなければ務まるはずがない。そんな背景もあって、宇佐美さんは日本からシアトルに一風変わった自家製の食材を持参していた。

原木どんこ椎茸やエノキの自家製天日干しは、ワシントン州暮らしに備えたお守り。米国産品とうまく組合わせる
「これを見てください。エノキとどんこ椎茸を乾燥させたものです。土がついていないものでないと合法的でないので注意が必要なんですよ」。キッチンペーパーと新聞紙であらかた水分を取ったものを、天日干しで1、2週間乾燥させた「だしの素」たちだ。日本と違う食環境のなかで、うまみ食材は珍重。味覚の充足度は、心情的にも確保しておきたい。しかも秋から冬にかけて日照時間が短くなるシアトルでは、乾物となった菌生類は一層の恵み。「書と同じです。根幹をつかんでいれば、どうにでも加工できるのです」。白川文字学で漢字の成り立ちを極めた宇佐美さんだからこその視点であり、哲学だ。

COP10(生物多様性条約締結国会議)の表紙を揮毫し、国連事務局長ジョグラフ氏(当時)と、会場の名古屋にて会談(2010年)
それは、子育てにも通ずる。紛争や災害などで、自宅や祖国を追われる人々が世界中にいるという現実を「他人事ではなく、自分事として捉える」ことを娘にも説いているという。「自分で素を作れる人になってほしいのです」。さらにこう続ける。「自分の中に『素』を仕込んでおけば、誰にも奪われないし、それを自分のものにしてしまえば、どこでも生きていかれます」。それは戦争を体験した祖母からの教えでもある。

経営者向けに文字の成り立ちを講演。時勢を鑑みた演題で日本全国へ赴いた。コロナ禍以降はオンラインでの機会も多く、「集う」場の主宰も始動中
「いかに書くかではなく、どう文字の真髄に迫るか」という視点で書を学んできた宇佐美さんにとって、それは自らに最低限必要なものを吟味するプロセスでもあった。こうして選び抜いた大切なものを胸に秘め、それをもとに新たな「学びの素」を仕込んでいく。シンプルでありながら奥深い生き方だ。古の東アジア地域に生まれた書の精神を現代に継承する宇佐美さんの眼差しは、どこまでも透明で美しい。

漢字の成り立ちを説いたYouTube動画、「Vignettes Kanji Stories」(www.youtube.com/@shizuusami)は日本の宇佐美さんの書室で撮影

「to write is to breathe」書くことは呼吸すること。照息「showsokuⓇ」は、Art Meditationとしての広がりをAI首都シアトルだからこそ、発信していきたいという

宇佐美本店の和調味料。ラベルは宇佐美さん揮毫(中央は亡母の書)。書家であるが、一方で、醸造・製造業を司っていることで複眼的になれる