声楽家・ボイストレーナー・合唱指導者
田形ふみさん
4世代さかのぼっても音楽家、という家に生まれた田形さんは、幼少期から声楽に親しみ、現在はソリストのみならず合唱指導者としても活躍しています。優しい笑顔が印象的な田形さんに、自身の声楽家人生を振り返ってもらうと共に、日本歌曲の魅力や異国の地で歌うことの意義について語ってもらいました。
取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供
田形ふみ■神奈川県出身。音楽一家に生まれ、幼い頃から声楽や楽器を習い始める。東京藝術大学声楽科を卒業後、1999年にワシントン大学大学院に留学し、カルメン・ペルトン教授に師事。2011年の東日本大震災を機に立ち上げた復興支援音楽グループ「ソングズ・オブ・ホープ」は、今年で15年目を迎える。現在はソリストとしてさまざまな舞台に立つほか、指導者として日本語の合唱団を主宰し、またイタリアの伝統的発声法「ベルカント唱法」をYouTubeでわかりやすく紹介するなど、幅広い音楽活動に精力的に取り組んでいる。
4代続く音楽一家に生まれて
音楽の道を究めるのは、並大抵のことではない。それが親や祖父母の代から続くとなると、相当に濃い「音楽家の血」が流れているに違いない。ましてや4代さかのぼっても音楽家だとしたら、どうだろう。田形さんは、母親が声楽家、祖母がピアニストというだけでなく、曾祖母が東京藝術大学の前身にあたる東京音楽学校で声楽を学んだという。「山田耕筰や瀧廉太郎が通っていた時代です。すごいですよね」と屈託なく笑う田形さん。叔母も従兄弟もプロの演奏家という、正真正銘の音楽一家で育った。母親は正統派の音楽に加えて新しいジャンルにも挑戦する人だった。当時、まだ目新しかったエレクトーンを購入。幼い田形さんは、弟と一緒に母の弾くピアノやエレクトーンの音色に合わせて歌うのが大好きだった。それが最初の「声楽」体験だった。さらに3歳から12歳までバレエも習っている。「かなり熱心に取り組みました。舞台に立った時の空間把握や立ち姿、所作などにも大きく影響しています」と振り返る。
マイクを持って歌う3歳の頃の田形さん。歌い出すと止まらなかった
大正生まれのハイカラさんだったピアニストの祖母、中島綾子さん。テニスや料理の腕前も上々だった
プロの音楽家を目指す人の多くが私立の中学や高校で専門教育を受ける中、田形さんは地元横浜の公立校に通い、外部の先生のもとで声楽を習った。そのことが後の藝大入試でちょっとした「伝説」を残すことになる。師事していた先生の出身校が国立 音楽大学だったことから、田形さんも同校声楽科を受験し合格。しかし先生から力試しにと藝大受験も勧められる。私立大学に比べ入試日程が遅い国立の藝大には、記念受験のように挑む人も多いそうだ。力試しのはずがとんとん拍子で三次選考まで進み、そこで初めて藝大の課題曲を知らないことに気づく。しかも先に国立音大の合格を決めていたため、先生はなんとイタリア旅行へ。今のようにインターネットもない時代で連絡手段はなく、頼る術のないまま試験会場へ出向いた。事情を説明すると同情した試験官たちは別室で協議を始めたものの、やはり「規定だから」ということでやむなく不合格となった。こうして最初の1年間は国立音大に通い、翌年に藝大を再受験して合格。「課題曲を歌えなかった前代未聞の受験生がいたらしい」と、藝大受験生の間でしばらく話題になったそうだ。
伝説の受験」の翌年に迎えた、藝大の入学式
晴れて藝大生となった田形さんは、幅広い経歴の仲間たちと切磋琢磨の日々を過ごす。藝大は国立大学ということもあり、自衛隊の音楽隊に所属していた元自衛官など社会人経験のある学生もいて、大いに刺激を受ける毎日だった。「声楽をやめたい」と思ったことは一度もないものの、発声に悩んだ時期はあった。「大学では『大きな声は良いこと』の風潮があり、元々軽い声のソプラノだった自分が、喉を痛めずにベストサウンドを作るにはどうすればよいのかが見えず、焦りを感じました」。しかし学外で素晴らしい声楽教師に出会い、新たな呼吸法を学んだりしたことで、自身の求めるべき方向性をつかむことができた。
藝大オペラハイライト「ラ・ボエーム」でムゼッタ役を演じる田形さん
被災地支援を通じて
声楽家から合唱指導者へ
田形さんは1998年、ワシントン大学大学院で声楽を学ぶためシアトルに渡った。「なぜ音楽大学ではないワシントン大学に?」と不思議がられたが、「そこが日本とアメリカの違うところです」と田形さんは言う。アメリカは日本ほど学閥の縛りが厳しくない。「アメリカの方が日本よりも個人主義なのでしょうね。優秀な指導者が一般大学に突然赴任してくることが時々あるんですよ」。田形さんが師事した高名なソプラノ歌手カルメン・ペルトン教授も、当時ワシントン大学で教鞭を執っており、そのことを古くからの友人である在米ピアニストから聞いて留学を決めた。
アメリカでは驚きの連続だった。「芸大の授業とはまったく違いました」と田形さんは振り返る。たとえばマスタークラス。担当教授からマンツーマンで指導を受け、その様子を他の学生が聴講する、いわゆる公開レッスンだが、発表後に必ず「良かった点を2つ、改善点を1つ」挙げることが課され、学生同士でフラットに批評し合う。こういったスタイルは日本にはなく、新鮮だったという。「この経験は、後に自分が指導する側になった時の土台になりました。『聴く耳を育てる』という点でもそうですが、『良いところを見つける聴き方』を訓練されて、すごく勉強になりましたね」
ワシントン大学修士課程で現代曲に挑戦した室内楽リサイタルメンバーとともに。田形さん(中央)の右隣がペルトン教授
室内楽が必須だったことにも驚いた。声楽は単身またはピアノ伴奏で歌うことが多いが、室内楽アンサンブルとなると複数の楽器をそろえる必要がある。しかもメンバーは自分で探さなければならない。田形さんはパーカッション、フルート、バイオリンという珍しい編成を組んだ。選んだ曲目は20世紀に作曲された現代曲。「ピアノの弦を直接指で弾いたり、弦の上に鉄のボールをボンボンポンと落としたり……クラシックピアノの先生が聞いたら、卒倒しそうですよね」と笑う。「こうした体験は、絶対にアメリカでないとできないものでした。おかげで、自身の音楽の幅が大きく広がりました」修士課程に在籍中、田形さんはシアトルで出会った日本人男性と結婚し、そのままアメリカに残ることに。シアトル・マリナーズのジャパンナイトで2年連続、国歌斉唱の栄誉に輝くなど、声楽家として順調なスタートを切った。やがて一人息子を授かり、平穏な暮らしを送っていたが、2011年に発生した東日本大震災が田形さんの声楽家人生を一変させた。「テレビで映像を見ていましたが、家や車が流される様子が映画の特撮のようで、言葉を失いました」。岩手県花巻市に住む旧友とも何日間も連絡が取れず、心配で居ても立っても居られない田形さんだったが、「私にできることは支援コンサートしかない」との思いを固め、親しい音楽仲間に声をかけて立ち上げたのが「ソングズ・オブ・ホープ(Songs of Hope)」だ。
ルーメンフィールドで行われた浦和レッズレディース対シアトル・レインFCの親善試合で、「君が代」を歌った(2025年7月)
2011年5月1日、震災発生から50日目に第1回コンサートを開催。この時は田形さんを含む日米両国のプロ音楽家によるコンサートだったが、思いがけないほど多くの反響を得た。「シアトルにこんなに日本人がいたの? と驚くくらい、一般の方からも多くの支援の申し出をいただきました」。翌年の1周年メモリアルイベントでは一般参加者を募り、コミュニティ合唱団を創設。州外からも人が集まり、120人を超える大規模な合唱団となった。
田形さんと2人のピアニストで立ち上げたSongs of Hope。当初はコンサートのタイトルだったが、後にグループ名となり、ジャパンフェア等の日系イベントで演奏するなど活動の幅を広げながら被災地支援を継続。パンデミックの中、震災10周年イベントをオンライン配信したのを区切りに、周年イベント開催を一旦休止とした。しかし、グループの支援先である「いわき放射能市民測定室たらちね」との協働は今も継続している。
日本語の歌詞でしか表現できないもの
2020年、世の中はパンデミックに突入し、声楽家である田形さんの活動も変更を余儀なくされた。生の歌声を届けることはできなくなり、代わりにコンピューターを駆使してオンライン合唱を行うなど、合唱の輪が途切れないように尽力した。その歌声の灯はしっかりと形になって、コロナ禍収束後も脈々と引き継がれている。
現在、田形さんは混声・男声・女声の3合唱団で指導しているが、いずれもレパートリーの中心は日本語の歌だ。日本語を話さないが日本語の歌を歌いたいという日系人、アメリカ人も参加しているそうだ。アメリカであえて日本語の歌を歌うことは、田形さんにとってどういう意味を持つのだろうか。
今年10月に開催されたピアノとのデュオコンサートにて、ピアニスト福田ゆり子さんと共演し、山田耕筰作曲「松島音頭」を歌う田形さん。ドレスの上に法被を着て和の雰囲気を演出
ベルカント・イン・シアトルの主宰者であり、歌の師である橋本美喜子さんとともに
「西洋の歌はLOVEがベースです。裏切られたとか、あの人が大好きだとか、愛についての歌詞が圧倒的に多いですよね。一方日本の歌は『枯葉が散った』。それだけで歌になります。自然を描写しながら、ちゃんと心のひだを映し出すのが日本歌曲ですね」。日本と西洋では文化の根っこが異なる。その違いをどこまでアメリカの聴衆に伝えられるかが挑戦であり楽しさだと田形さんは語る。
声楽では人間の身体そのものを楽器と考える。バイオリンやピアノと同じように、「音を出す」という意味では同じ楽器だが、そこには一つだけ大きな違いが。それは、歌詞を付けられる唯一の楽器であるということだ。だからこそ、「聴衆に歌詞が伝わることがとても大事」と田形さんは考える。歌い手は、歌う前に歌詞を深く読み込むことを怠らない。「役者のようにイメージを突き詰めて感情が入った状態に持っていくことを徹底して行います。そこに音を乗せていく。すると必然的にその文化のカラーが出てくるのです」
混声合唱団サウンド・シンガーズ 定期演奏会
日本語の歌詞の繊細さや余白の美しさを、アメリカ人だけでなく、アメリカで育つ日本人の子どもたちにも感じ取ってほしい。そんな思いを込めて、田形さんは舞台に立つ。「人に聴いてもらうと、その方たちから反応があって、その反応を受け取った私たちが、また次に新しい音で応える。現場ではいつも『化学反応』が起きています」。声楽家にとって、人前で歌うことは自分自身の音楽を伝えるだけでなく、聴き手との一期一会で生まれる奇跡の連続なのだ。
「表現をシェアできる空間を持つことが大切」。コロナ禍を経て、田形さんは一層その想いを強くする。そうした中で田形さんが数年前から始めた活動が、「ベルカント唱法」の研究と普及だ。ベルカント唱法とは、オペラ発祥の地イタリアで18世紀から19世紀にかけて確立された発声法のこと。「身体という楽器」を使い、いかに無理なく美しく響きのある声を出すか、そしてその声を基に最大限の表現を追求する歌唱法だ。楽器演奏の場合、楽器は職人が作り、奏者が演奏方法を習うが、声楽では「楽器」を作るところから始める。そこから最終段階の表現法まで一連のプロセスをベルカント唱法では網羅しているが、これを誰もが実践できるようにと、イタリアで長年研鑽を積み現在はシアトルに在住するソプラノ橋本美喜子さんが独自のメソッドを作り上げた。この橋本さんの「わかりやすく科学的に解説し、どんな人でもアプローチできる」という理念に田形さんは共鳴し、賛同者たちでYouTubeチャンネル「ベルカント・イン・シアトル(Bel canto in Seattle)」を開設。最近では視聴者からの要望を受けて、英語でも発信している。さらに年数回のライブコンサートも開催している。
男声合唱団エバーグリーン・グリー・クラブ(EGC)と女声合唱団キャビン・クワイアのジョイントコンサート
今から約130年前、明治期の日本に西洋音楽は本格的に導入された。その黎明期から現在に至るまでクラシック音楽教育の中核を担う東京藝術大学で曾祖母と同じように声楽を学んだ田形さん。今はこのシアトルの地で日本語合唱団を指導しながら、自らも舞台に立ち、イタリア伝統の歌唱法に則った美しい歌声を響かせている。16世紀末に遠く離れたイタリアでオペラが誕生してから約400年。現代を生きる田形さんのような声楽家たちによって、これからも新たな伝統が紡がれていくだろう。
主な活動・関連リンク
ベルカント・イン・シアトル
Youtube:www.youtube.com/@belcantoinseattle
ソングズ・オブ・ホープ 東日本大震災10周年イベント
Youtube:www.youtube.com/live/NnZ4ueqd2h8?si=GoZJBEpoI0tzBfyM
いわき放射能市民測定室たらちね
https://tarachineiwaki.org
ベルカント・イン・シアトル次回公演決定!
日程:2月14日(土)2pm~
場所:Rock of Ages Lutheran Brethren Church(Seattle)
316 N. 70th St., Seattle, WA 98103
料金:寄付1人$20(任意)
問い合わせ:belcantoInseattle@gmail.com























