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ワシントン州議会下院議員 シャロン・トミコ・サントス さん

40年以上にわたりコミュニティー活動を続けるシャロン・トミコ・サントスさんは、1998年、ワシントン州議会下院議員に初当選。11月6日に行われた総選挙にも民主党から立候補し、見事再選を果たしました。ワシントン州下院教育委員会の委員長を務めるなど、教育の機会均等に尽力する政治家としてのキャリア、そして9月に開催した日米交流イベントについて話を聞きました。
取材:ブルース・ラトリッジ、室橋 美佐 翻訳文:宮川未葉

議員生活20年、

これが私の進む道

 

政治に足を踏み入れた高校時代

シャロンさんはシアトルで育ち、多くのマイノリティー学生が通うフランクリン高校を卒業している。政治の世界、特に教育格差や人権問題に関心を持つようになったのは、シアトルでアジア太平洋諸島系(API)アメリカ人の公民権運動が盛んになった高校時代の情勢が影響しているという。1970年前後は、インターナショナル・ディストリクトそばに計画されていたキングドーム・スタジアム建設の反対運動や、第二次世界大戦時の日系人収容への補償訴訟など、APIコミュニティーによる政治活動が積極化した時代だ。「シアトルにおける公民権運動は、(日系、中華系、ベトナム系、アフリカ系など)複数の民族コミュニティーが団結することで大きな社会的影響力を得ました。これはとても特別なことで、アメリカの他地域では見られません。シアトルで育ったおかげで、多種多様なコミュニティーや人権問題に意識が向くようになりました」

シャロンさんは、フランクリン高校でアジア系学生会議を仲間と共に結成。そして、政治活動家のルーサン・クロセさんと出会い、日系人強制収容補償運動に参加する。ルーサンさんは、アキ・クロセ中学校や低所得者向け住宅のアキ・クロセ・ビレッジでもその名が残る日系2世の平和活動家でシアトル学区教師だった、アキ・クロセさんの娘でもある。「15歳だった私にとって、ルーサンは最初のメンターでした。ルーサンの影響で、シアトル学区の人種隔離撤廃問題にも関
わるようになりました」

当時、シアトル学区は人種隔離を行っているとサンフランシスコの連邦裁判所判事から判断を下され、その撤廃計画案を同連邦裁判所が作成することになっていた。アジア系、アフリカ系、ユダヤ系などの非白人学生を一部の学校に隔離する公立学校の制度に対して、議論を重ねてきた公民権運動の成果として下された判決だった。しかし、シアトルの活動家たちは「サンフランシスコにいる人に、私たちのコミュニティーの何がわかるのか」と、シアトル独自の計画案作成を主張した。「私は、生徒代表として活動家たちと話し合いの席に参加しました。そして、生徒と学校の利益、ニーズをシアトルに住む自分たちで判断し、それに基づく計画を自分たちで立てるべきだと訴えました」。シャロンさんは、他の生徒と協力してシアトル市内の学校を巡って議論を重ねた。

活動家らと協力して地道なロビー活動を続けた結果、シアトル発の計画案が教育委員会に採用されることになった。「その時代、判事に逆らって『自分たちで計画を立てたい』と主張するのは、かなり過激なことでした。計画案は自発的人種隔離撤廃計画と呼ばれて、このシアトルでの活動は全米に知られるところとなりました」

 

ボブ・サントスさんとの出会い

2年前に亡くなったシャロンさんの夫、「アンクル・ボブ」ことボブ・サントスさんはフィリピン系アメリカ人で、キングドーム建設反対運動のリーダー的存在として著名な公民権運動指導者だ。インターリム(インターリム・コミュニティー開発機構)創立メンバーのひとりで、同団体の代表としてインターナショナル・ディストリクトの持続可能な成長に尽力した人物としても知られる。一方で、シャロンさんの父親のケネス・ミヤケさんもブレイン・ユナイテッド・メソジスト教会で牧師を務める傍ら公民権運動に関わり、妻のジョイスさんと共に活動していた。「私が政治に関わり始める頃には、両親と一緒に活動していたボブのことはすでに知っていました。公民権運動に加わるみんなが知り合いなんです。それと、実は、ボブの子どもたちと同じ中学、高校に通っていました。私と継娘がフランクリン高校を同じ年に卒業したなんて笑い話にされていますが、本当のことです」

シャロンさんの父ケネスミヤケさんは1世コン サーンズ現在の敬老ノースウェスト創設メンバーのひ とり老人ホームで他の居住者やスタッフとコミュニケー ションを取れずに孤立していた日系1世のために2世の 仲間と共に立ち上げた

シャロンさんがボブさんと親しくなったのは、1988年にマイク・ローリー元ワシントン州知事の上院議員選挙運動をボランティアで手伝い、後に採用されて選挙事務所で働き始めた頃だ。ローリー議員は日系人強制収容に対する補償を積極的に支援していた政治家で、ボブさんは同氏の議会スタッフだった。「当時は、議会スタッフが勤務時間後によく選挙事務所を訪れていました。ボブはとにかく明るくて楽しい人。亡くなる直前まで、女性にモテていましたから! バーに仲間と集まるのも好きでした。無理やりカラオケを歌わせたり、一緒に踊りに行ったり、武士ガーデンへもよく行きましたよ」

ケニスミヤケさん左とボブサントスさん右2人は公民権運動にも携わった

日系人女性議員の草分け

シャロンさんは1998年の初当選以来、ワシントン州下院議員を20年間務めている。今年の総選挙でも再選を果たしたばかり。「ワシントン州では上下院共に日系女性として初めての当選でした。そして、日系・メキシコ系アメリカ人のモニカ・ストーニア下院議員が選出される最近までは私1人だけの状況が続きました。モニカはコミュニティーのニューフェイスですね。ワシントン州の150年近い歴史で、今やっと2名になったところです」

そんなシャロンさんも、最初から議員を目指していたわけではない。「静かで目立つことはしない真面目な『大和撫子』になるように育てられましたから。自分の能力と性格からして、向いているのは立候補者ではなく、優れた右腕として議員を補佐する側だと思っていました。リサーチをしたり、政策案を提案したりする仕事を続けるつもりでした。政治家が好まれない理由はたくさんありますよね。人前に身をさらして、多くの人に話しかけて、お金を出してくださいと頼んで。私もそういうことは好きではないですから」と、シャロンさんは笑う。

 
シャロンさんが生まれた当時の家族写真ケネスさんの生まれは倉敷でシカゴの神学校で学ぶために米国に移住後にシャロンさんの母でカリフォルニア生まれの2世ジョイスイシザカさん写真右とバークレーで出会う

とはいえ、シャロンさんは社会に奉仕することが自分の進む道だと考えてきた。「日系1世のコミュニティーで育ったことは大きく影響していると思います。長子ということで、弟や妹よりも日系1世と関わる機会が多かったんです。第二次世界大戦中に日系人が犠牲となった事実を伝えて、米政府に再び同じ間違いを起こさせないようにしなければという使命感がありました」。シャロンさんは、政府が常に約束を果たし、力を発揮できるようにするための公務は自分の義務であり、授かった天職だと語る。「立身出世のために立候補する人たちも多くいますが、私が立候補したのはそういう使命感にかられたからです」

議員スタッフとして働くことに当初は満足していたシャロンさんが、自ら立候補することを決めるに至った理由はほかにもある。議員に助言するという立場に歯がゆさを覚えるようになったのだ。「最高の右腕として一生懸命資料や政策案を準備して助言をしたとしても、結局は政治的立場を理由に、議員が助言とは違うことを実行するというのは、しばしばあります。その現実を知り、愕然としました。いろいろなリサーチや聞き取り調査をして、考え抜いて案を作り上げても、すっかり無駄になってしまう。それが嫌になってきました」。最終的にシャロンさんの背中を押したのは、自身が住む地区で教育機会の格差是正を求めて声を上げても、取り合ってもらえないという怒りだった。シャロンさんが住むレニアビーチ地区では、公立学校への公的資金分配や、教育プログラムの内容、教師が受ける支援など、あらゆる点でリソースが不足していた。「あるのは時代遅れの古い教科書1冊で、先生は生徒全員分をコピーしなければならない。レニアビーチは、貧しい非白人系のマイノリティー生徒が多い地区。こうした問題は30年前、私が高校生だった頃に解決されていたはずなんです。なのに、まだ教育機会の格差が解決されていなかった。私は強い怒りを覚えました」

1911~2010年にチャイナタウンインターナショナルディストリクトに暮らしていたフィリピン系アメリカ人を称えてと題した高さ2メートルのキオスクには活動家だった夫のボブサントスさん2016年に死去の全身写真が中央に入る

シャロンさんは、シアトル学区の教育長と教育委員会に働きかけた。しかし、当時の教育長と教育委員会は耳を傾けてくれず、その横柄な回答には腹立たしささえ覚えたそう。そんな折、同地区の州議会に欠員が出た。「私は納税者であり、地元の高校のために活動をしている市民。シアトル教育委員長が私の声を聞いてくれないのなら、ワシントン州の下院議員になって私の声を聞かせるまで」と、シャロンさんは決意を固めた。

そして、晴れて議員に選出されたシャロンさんの元に、シアトル学区の職員たちが、挨拶回りで訪れる。教育長もシアトル学区を代表して話をしに来た。「話の最後に、私は彼に言ったんです。『教育長、あなたが私の言うことを聞いてくれなかったので、私は本当に頭に来て、それでこの職に就けました。あなたに感謝しなければいけませんね。今度はあなたが私の言うことを聞く番ですよ!』と。彼は2度と戻って来ませんでした」。シャロンさんはその後、ワシントン州下院教育委員会の委員長の地位に昇り、現在も精力的に教育問題に取り組んでいる。

 

日米草の根交流サミット開催
日米友好の架け橋に

9月18日~24日に開催された第28回日米草の根交流サミット2018シアトル・ワシントン州大会。日本から135名以上の人々がシアトルを訪れ、州内各地で3泊のホームステイをしながら、異文化体験を満喫した
写真提供:ワシントン州日米協会/ナット・セイモア

シャロンさんは、日米友好関係強化のために両国の政財界リーダーのネットワークを促進する米日カウンシル(U.S.-Japan Council)のメンバーでもあり、日本関連イベントに参加するなど日米友好に尽力する議員としての一面も持つ。今年9月にワシントン州で開催された日米草の根交流サミットでは、元シアトル港湾局CEOでワシントン州日米協会元代表のテイ・ヨシタニ氏と共に、準備委員長を務めた。

国際親善を目的とする日米草の根交流サミットは、ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターが主催し、日本とアメリカで毎年交互に開催されている。第28回となる今年は初めてワシントン州で開かれ、ワシントン州日米協会が共催した。来年はワシントン州と姉妹提携する兵庫県で開催予定だ。日本からのサミット参加者は、シアトル酋長誕生の地であるブレーク島での開会式典に始まり、シアトル、ベルビュー、バション島、モーゼスレイク、タコマ、ポートタウンゼンドなど州内各所でのホームステイ体験、交流イベントを楽しんだ。開催の準備は2年前、テキサスで開催された草の根交流サミットの直後から始まり、シャロンさんは準備と資金集めに奔走した。

サミットの意義について、シャロンさんはこう語る。「サミットは市民外交そのもの。現代の国際関係では、市民外交が重要な役割を果たします。近年のわが国の情勢から、努力の末に確立された国際関係がいとも簡単に崩れかねないような状況の中で、草の根レベルで1人ずつ関係を構築していくことは大きな意味があります。このサミットの主役は、日米両国の普通の人々です。人間対人間の関係を築くきっかけを作るのが、サミットを開催する大きな目的です」

シャロンさんはまた、このサミットで生まれた個々の友好関係を世界へと広げて欲しいと強く願っている。「大局的には、世界はますます緊迫化しています。アジア地域で起こっている緊張や、米国と世界各地のパートナーとの間の緊張もあります。だからこそ、特に若者同士が草の根のつながりを持って、強い親近感と友情を育むことはとても大切です。今の大統領になって世界情勢は予断を許しませんが、民間の人々が、『アメリカは日本に対して反感を抱いていない』と感じることが大事。このことは声を大にして言いたいですね」

 

若者同士が草の根のつながりを
持って、強い親近感と友情を
育むことはとても大切
 

シャロン・トミコ・サントス(Sharon Tomiko Santos)■民主党所属のワシントン州議会下院議員(第37区)。教育のほか、人権、女性の権利、経済格差、ジェントリフィケーションなどの問題解決に取り組む。全米アジアン・パシフィック・アメリカン女性フォーラム、ワシントン大学ビジネス経済開発プログラムのアンバサダー役員会などで、数々の役員を務める。アジア太平洋諸島系コミュニティー・リーダーシップ財団のキップ・トクダ・コミュニティー・リーダーシップ賞、ワシントン州ジュニア・アチーブメントのリーダーシップ・ビジョン賞など、受賞多数。エバーグリーン州立大学(学士)、ノースイースタン大学(修士)を卒業。

シャロンさん、州議会下院議員総選挙で勝利
地元・レニアビーチで祝賀パーティー

今年11月の総選挙で再選を果たしたシャロンさん。同月末にレニアビーチ地区内の友人宅で祝賀パーティーが開催された。友人、家族、地区住民などが集まるアットホームなパーティーだ。シャロンさんは今期もワシントン州下院教育委員会の委員長を務めることを報告。あらゆるバックグラウンドの子どもや青年が公平に教育機会と就労機会が与えられる法案を通していくと支援者に伝えた。