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福原 たまねぎさん〜IT企業米国本社シニア・プロダクト・マネージャー

福原 たまねぎさん
〜IT企業米国本社シニア・プロダクト・
マネージャー〜

徹底した成果主義で知られる米国IT企業の本社で働きながら、定時退社は当たり前。週末はしっかり休み、長期休暇には旅行三昧。そんな理想的な生活を送る福原さんも、20代の頃は昭和型の「モーレツサラリーマン」でした。日本でごく普通の大学生だった福原さんは、どのようにして「成果と休みを両立させる働き方」にたどり着いたのでしょうか。その道のりと心の変化について、余すところなく語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

福原たまねぎ■横浜市出身。父親の転勤に伴い、幼少期をニューヨークとシドニーで過ごす。小学3年で帰国後、地元の公立小学校から私立中学校へ進学。早稲田大学法学部在学中にインドとベトナムでインターンを経験し、新卒でベンチャー企業に入社する。3年半勤務した後、2016年に米国IT企業の日本支社へ転職。2022年4月、シアトル本社へ転籍し、現在はシニア・プロダクト・マネージャーを務める。「福原たまねぎ」のペンネームでコラムも執筆。note創作大賞2025に入選し、5月には初の著書『世界の一流が休むためにやっていること』を出版した。

上昇志向と劣等感の狭間でもがいた少年時代

誰もが知るグローバルIT企業の米国本社で、シニア・プロダクト・マネージャーとして働く福原さん。平日は朝早くからシアトル・ダウンタウンのオフィスで仕事に没頭し、午後4時になるときっちり退社する。そこから先は、自分だけの自由な時間。平日の夜と週末は完全オフだ。「周りの同僚も、みんな4時頃には帰っていきます。それがアメリカに来て、一番驚いたことでした」。そう福原さんは語る。

福原さんは幼少期をニューヨークとシドニーで過ごした帰国子女だ。だが、英語は話せなかった。そのコンプレックスが、長いあいだ福原少年の心に影を落とす。1歳だったニューヨーク時代の記憶はないが、3歳で渡ったシドニーの記憶は鮮明に残っている。4歳上の兄はすぐに溶け込み、オーストラリア人に交じって楽しく遊んでいたのに対し、「僕は、全く馴染めませんでした」と福原さんは振り返る。現地の幼稚園に入ったものの、「肌や髪の毛の色が自分だけ違う」。世界が分断されたような疎外感を覚えた。やがて中国系と思われる子どもたち数人と別室で授業を受けるようになる。1990年代前半のオーストラリアには、まだ白豪主義的な空気が若干残っていたのかもしれない。それを敏感に感じ取った福原さんは「現地校はイヤだ」と言い出し、日本人学校へと転校。どっぷり日本式の教育を受けることになった。「せっかく海外に来てまで、なんで……」と葛藤する両親の姿を、福原さんは今でも覚えている。証券会社に勤める父親は、16歳でアメリカに留学するほど、海外への憧れが強い人だった。「英語ネイティブになれる機会をみすみす逃すなんて」。そう思うのは致し方なかったのかもしれない。

オーストラリアの小学校で撮影されたクラス写真。2列目右端が福原さん

10歳の頃、親戚宅にて。理由は覚えていないが、なぜかマリナーズのユニフォーム姿

小学3年で横浜に戻ってからは、水を得た魚のように楽しい子ども時代を送った。だが、「帰国子女なのに英語しゃべれないの?」という同級生たちの一言が、その後も長く心に引っかかった。そしてこの時期、もう一つ重要なターニングポイントが訪れる。自分の意思で中学受験を決めたのだ。大半のクラスメートが公立中学に進むなか、「このまま地元の公立に行けば、いじめられるな」となんとなく感じた福原さん。12歳にして「腕力の強いヤツに勝てる気がしない」と悟ったが、それと同時に、「自分はもっとすごい人、頭のいい人と一緒にいたい」という上昇志向がムクムクと膨らみ始めていた。こうして自分の意思で塾通いを始め、私立中学校・高等学校に進み、早稲田大学へと順調に人生の駒を進めた。

幼い頃から釣りが大好きだった。大人になった今も、休日は釣りを楽しんでいる

就活に迷走した果てに、インドとベトナムで見えた未来図

「世の中を統治するガバナンスの仕組みを体系的に学んでみたかった」という理由で法学部を志望したものの、「授業は全く面白くなかったです」と苦笑する。ところが、3年生になって国際法ゼミに入ると、周囲はバックパッカーや留学・海外インターン経験者だらけ。しかも、中にはろくに英語が話せない学生もいる。福原さんの中で、何かがはじけた。「コイツが一人で10カ国も回れるなら、僕だってできないわけがない」。そう思い立った福原さんは、インド北部の都市チャンディーガルでインターンをする手はずを整えた。

派遣先は、視覚障害のある子どもたちを支援するNPO。得意なギターを弾き、英語の歌を歌って文字を教える。活動内容は単調だったが、世界各国から集まるインターンたちとの共同生活が楽しかった。職場はそれぞれ違ったものの、2カ月間寝食を共にし、週末になるとバス旅行に出かける。「これ、おいしいね」。そんな何気ない会話が通じるだけで、心が通い合った気がした。ギャップイヤー制度があるドイツからは、すでに社会人となった若者が実務経験を求めてやってくる。「帰ったら徴兵されるんだ」と話すのは韓国人。同じ世代でもこんなに違うのだと思った。

「矛盾するようですが、国際的なことにはずっと憧れがありました」。幼少期から抱えていた外国人コンプレックスをすっかり払拭した福原さんは、帰国後、海外出張や海外赴任のある企業に絞って就職活動をした。しかし、結果は全滅。「全く合いませんでした。浅はかな動機を見破られていたんでしょう」。高圧的な面接官の態度にも強い違和感を覚えたし、急にごまをすり始めた周りの学生にも悲しさを感じてしまった。周囲が次々と一流企業から内定を得ていく一方で、福原さんは「自分はレールから外れてしまった」と焦りを募らせた。孤独とプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、「逆に、自分の人生は自分で切り開く覚悟ができました」と当時を振り返る。

就職活動をきっぱり諦めた福原さんは、再び海外インターンに挑む。半年間休学して渡った先はベトナム。それが「テック業界」との出合いだった。派遣先のスタートアップ企業では、若いベトナム人エンジニアたちが、日本で人気の天気予報アプリを開発していた。「日本で多くの人が使っているアプリが、こんな遠いところで、しかも自分と同世代の人たちによって作られていたんだ」。その事実に衝撃を受けると同時に、福原さんは「テクノロジーは、モノさえよければ年齢も国境も飛び越える」ことに気が付いた。そして持ち前の上昇志向から、「いつかテックの本場アメリカで働きたい」と心に決めた。

帰国後、福原さんはきついことで有名だった渋谷のベンチャー企業に新卒で入社する。創業者は業界でも知られたカリスマ経営者で、その尖った姿に福原さんは強く引かれた。文系出身だった福原さんが任されたのは、子会社COOのアシスタント業務。早朝から深夜まで、身を粉にして働く生活がおよそ2年間続く。その後、部署移動を経て、要件定義、進捗管理、効果測定、レポーティング……。開発に必要な業務は一通り経験した。「とにかく鍛えられました」。その努力は、やがて大きく実を結ぶこととなる。

「いつかテックの本場で働きたい」という思いは日に日に強まり、福原さんは次のステップとして、米国IT企業の日本支社へ転職する。高い競争率を突破してつかんだチャンスだった。今でこそ巨大企業となったその会社も、当時はまだベンチャー的な社風を残していた。「面接官もベンチャー出身だったんです。だから僕を採用してくれたんじゃないでしょうか」。ベンチャーでは、業務が細分化された大企業とは違い、自ら考え、実行するのが当たり前。そうした経験が大きな武器になった。

新しい職場でも福原さんは馬車馬のように働いた。だが5年が過ぎた頃、日本支社で働くことへの限界を感じ始める。「やっぱり米国本社で働きたい」。その思いに突き動かされ、福原さんは社内のあらゆるツテを駆使してチャンスを探った。

アメリカ人の友人と東海岸へ。米国IT企業の日本支社への転職が決まった頃(2016年撮影)

「仕事」と「自分」を同一視しない働き方へ

米国本社への移籍を本格的に意識し始めてから約1年後。福原さんはついに、本社行きのチケットを手にシアトルへ渡った。そこで衝撃を受けたのは、「誰も残業しない」カルチャーだった。「世界中で使われているプロダクトやサービスを開発しているのに、働く時間は日本支社の半分程度なんですよ」。それにもかかわらず、米国本社チームの方が日本支社チームよりはるかに高い成果を出している現実があった。「明らかに一人一人の働き方が違う」。そのことに感銘を受けた福原さんは、周囲の働き方を徹底的に観察し、研究を重ねた。そしてたどり着いた答えが、「たかが仕事」というメンタルだった。

「日本もだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ『ハードワーキングカルチャー』ですよね。『やりがいの追求』と言えば聞こえはいいけれど、仕事にすべてを求めすぎなのかもしれません」。日本の多くの職場では、上司からの圧力や同僚へのライバル意識など、さまざまな制約のなかで山のようなタスクをこなし、それらを完了して初めて「自分の時間」になる。ところが、アメリカでは順番が逆だ。まず仕事の時間と夕方以降のプライベートの時間を明確に「ブロック」する。そして、その限られた時間の中で成果を出すことに集中するのだ。

ニューヨークの名門ジャズクラブ「ビレッジ・バンガード」の前で。米国移住後、コロナ禍の収束を機に全米各地を旅するようになった(2024年撮影)

福原さんが勤めるオフィスは、金曜午後3時ともなると、もぬけの殻だ。「金曜の午後に会議を設定しようものなら、大ヒンシュクです」と真顔で話す福原さん。「みんな、自分の時間を大切にしているんです。家族がいる人だけでなく、シングルの人も『自分の心を守るために』パーソナルスペースを大事にしています」。平日は全力で働き、週末は時間を忘れて仕事以外の何かに没頭する。それが「月曜日を笑って迎えられる」秘訣だったのだ。

アメリカでは日本と比べ、仕事とプライベートの線引きがはっきりしている。福原さん自身、ベンチャー時代には体を壊して休職に追い込まれた人を何人も見てきた。人によってキャパシティーは違う。誰もが創業者のような働き方をできるわけではない。

「自分の人生なのだから、自分に決定権があることが大事なんです」。当たり前のように聞こえるが、これを本当に実践できている人がどれほどいるだろうか。知らず知らずのうちに、仕事に人生を支配されていないだろうか。「僕自身、ずっと長時間労働で帳尻を合わせてきました。だからこそ、『働き方は変えられる』ということを伝えたいんです」そんな福原さんは、「福原たまねぎ」のペンネームでコラムを執筆している。その出発点はコロナ禍のシアトル生活だった。2022年、単身でシアトルに渡ったものの、コロナ禍の影響で出社は制限され、「日本語がたまっていく感覚」があったという。

そして再び、あの「上昇志向」が顔を出す。「中学受験を決めた時と同じで、やるからには一番上を目指したいと思いました」。「文章を書くからには、本にしたい」と目標を定め、戦略的に発信を続けた。noteでの発信が出版社の編集者の目に留まり、今年5月、初の著書『世界の一流が休むためにやっていること』が出版された。その前年には、note創作大賞2025のビジネス部門にも入選している。

30代半ばにして、次々と夢を叶えてきた福原さんだが、今後の目標や夢はあるのだろうか。「変化のスピードが速いテック業界ですから、5年後のことなんて誰もわかりません。僕だって、いつレイオフされるかわからないですし」。淡々と語るその口調に、気負いや悲壮感はまるでない。一方で、「いずれはまたスタートアップに戻りたい」という気持ちもあるという。

競争の激しいテック業界を、ひょうひょうと、しなやかに渡り歩く福原さん。10年後、どんな仕事をしているかはわからない。だがきっと、その時も「上昇志向」を失わず、自分の意思で人生の選択をしながら、しっかり働き、しっかり休んでいるのだろう。そしてその頃には、「当たり前のように休める」という価値観が、今より少し社会に浸透しているのかもしれない。

インターン先のインドとベトナムで開眼した福原さん。当時の写真は残っていないため、元イラストレーターの友人が福原さんの記憶をもとに描いたイラスト https://note.com/fukuharatamanegi/n/n12439b07ba96

シュレーゲル 京 希伊子
翻訳家・通訳・ライター。東京都出身。1992年より2年間、在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部および米国大使館政治部にて、外交政策の調査・立案やスピーチ原稿の執筆を担当した。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学ゼロエミッションフォーラム事務局長補佐を経て、フリーに転身。2014年より再びシアトルに拠点を移し、バイリンガルの一人娘を育てながら、ITマーケティングを中心に幅広い分野で翻訳・通訳業務を手がける。2024年以降は、ドラマや映画などの映像翻訳(日⇔英)にも活動の幅を広げている。主な共訳書に、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』、『マクドナルド 7つの成功原則』、『よい環境規制は企業を強くする―ポーター教授の仮説を検証する―』などがある。高校時代にAFS交換留学生としてマサチューセッツ州で1年間ホームステイを経験。ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダでの居住経験もあり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、旅行、芸術鑑賞、読書、料理。TOEIC975点、英語検定1級、漢字検定2級、環境社会(eco)検定。