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天海 幹子さん〜文筆家、ボランティア・コーディネーター

天海あまがい 幹子さん
文筆家、ボランティア・コーディネーター

2000年代、北米報知出版のゼネラル・マネージャーとして辣腕を振るった天海幹子さん。現在はボランティア活動の傍ら、文筆家としても活躍しています。2020年には自叙伝『ゼッケン67番のGちゃん』を出版。この春、3人目の孫の誕生を控え、シアトル、カリフォルニア、沖縄を行き来する多忙な日々を送っています。そのエネルギーの源とは。型破りで天真爛漫な幹子さんの半生をひもときます。

取材・文:加藤 瞳 写真:加藤 瞳、本人提供

天海幹子■1952年、東京都日本橋生まれ。1971年仏パリへ2年間留学。1977年、結婚を機にシアトル移住。エバーグリーン州立大学環境デザイン学科卒業後、コンピューター・エイデッド・デザイン(CAD)個人会社を設立し、マイクロソフト社オフィスなど多数の建設現場に携わる。4年間の日本一時滞在を経て、2000年から2004年まで北米報知出版ゼネラルマネージャー、邦字新聞「北米報知」編集長を兼任。2020年、著書『ゼッケン67番のGちゃん』を刊行。2020年より本誌で「みきこのシリメツ ハタメーワク」を5年間連載。現在は姉妹紙『北米報知』で同コラムを連載中(https://napost.com/ja/category/column/shirimetsu/)。CAD引退後の現在は、執筆業に専念している。

 

跳ね返りミッコちゃん、日本を飛び出す

日本という小さな島国は彼女には狭すぎたのだろうか。「型にはまるってことが苦手なのかな。なにしろとんでもない父親を見て育ったものだから」。こうと思ったら一直線。幼い頃から意志が強く、他人に意見することもされることもいとわない幹子さんは、人とは違う道を走ってきた。

日本橋堀留町の生まれ。栃木の織物工場の次男だった父の清二きよじさんは、生活苦から中卒で身を売られ、半玉はんぎょく(一人前の芸者になる前の見習いの芸妓)として置屋にいた母と、周囲の大反対を押し切って結婚。商売や事業、新しいことを思いつけばすぐに挑戦し、その夢に向かう過程が楽しくて仕方ない。そんな「堀留の変わり者」と呼ばれた父の背中を見て育った幹子さんも、しっかりその血を受け継いでいる。

6歳で母と死別したが、その母の切なる願いを受け、厳格なカトリックの私立女子校に小学部から入学した。中学ではマフラーの色を規定する校則に納得がいかず評議委員に猛抗議。仲裁に入ったシスターを泣かせてしまったというから恐れ入る。合点のいかないことには決して妥協しない。

若くして他界した母と、日本舞踊のお稽古に励む幹子さん。笑った目元が幹子さんとそっくりだ

天海家の三姉妹。左から幹子さん、姉、妹。姉と妹もそれぞれ国際結婚し、海外で暮らしている

この頃仲良くしていたのは、ベトナム出身の幼なじみ、クリスティーヌさんだった。まだベトナムがフランスの植民地支配を終えて間もない時代だ。幹子さんの学校では小学4年生からはフランス語が必須科目だったこともあり、クリスティーヌさんとの会話はすべてフランス語。おかげで中学を卒業する頃には日常会話程度なら話せるようになっていた。そうなっては、「普通ではない」ことを思いつくのが幹子さんだ。そのままエスカレーター式に高校へは進まず、東京日仏学院でフランス語漬けの勉強生活を送りたいと、清二さんに直談判した。だがその時は「将来、日本のことを知らない人間になっては仕方がない。そのためにはなんとか高校だけは出てほしい。卒業したらどこへ行ってもいいから」という清二さんの意に従い、高校へ進学。それでも卒業後は必ずフランスへ行くという約束はしっかり取り付けた。1960年代のこと。当時、フランスに留学する日本人は、まだそう多くはなかっただろう。「父は若い頃、ブラジルに移民として行きたかったそうです。でも祖父に勘当だと激怒され、祖母が泣いて止めるので断念。そういう気持ちを私には味あわせたくなかったんですって」。ただし、条件があった。清二さんを安心させられるような学校を見つけてくること。そして、月々どのくらいの費用がかかるのか、全て自分で調べること。その当時かかった費用は、実は清二さんが借金をして工面していたのだとのちに知った。「自分の経験から、挑戦して失敗したことよりも、やらなかった後悔のほうが忘れられず、一生つきまとうって。父にはとても感謝しています。父のいちばんの教えは『やりたいことはなんでもやればいい。その代わり、自分で責任を取りなさい』ということでした」

幼なじみで親友だったベトナム人のクリスティーヌさんとの一枚。黒髪ストレートのワンレングスが当時の幹子さんのトレードマークだった

フランスに渡った幹子さんが通うことになった寄宿学校は、ヨーロッパ中から集まった貴族や良家の子女が文化的教養や家事などを学ぶ、いわゆるフィニッシングスクールだった。だが、ここでも幹子節がさく裂する。「2年の学校だったんだけど、そこでまたスクール・ディレクターとケンカしちゃったもんだから、1年でやめちゃった!」実に豪胆だ。2年の約束で日本を出てきたのだからと、すぐには帰国せず、その足でパリ大学に入学し日仏翻訳を学んだ。フランス語よりもむしろ、日本語の難しさを痛感したのもこの頃だった。「そこで出会っちゃったのよ。アメリカ人の元夫と!」とにかく、転んでもただでは起きないのが幹子さん。

「そこで」と言っても実はパリで出会ったわけではない。夏のバカンスを利用し、ユーレイルパス(ヨーロッパ33カ国の鉄道やフェリーが乗り放題になる外国人旅行者向けの周遊パス)でヨーロッパを一人旅した際に、イタリアのフィレンツェにあるユースホステルで、イリノイ州から来ていたアメリカ人男性と出会い意気投合した。クリスマスには彼を訪ねアメリカへ。さらに、フランスで過ごすはずだった2年の最後の6カ月間は、イリノイ大学のESLに移り英語を学んだ。「もう私の人生、めっちゃくちゃ複雑! でも自分で複雑にしちゃってるのよね」と笑う。このポジティブさこそ、幹子さんの持ち味だろう。どんなことも、良いほうへ良いほうへと気持ちを切り替えていける。

カナダ大使館レセプショニストとして、トルドー元首相とファーストレディーに応対。当時フランス語が話せる人材は貴重だった

パリ時代。実は日本帰国後、伊藤忠商事に勤めていた叔父に頼まれ、パリに戻って日本人向けのツアーコーディネーターをしていたことも。この時に取ったきねづかか、今は北米報知ツアーでその手腕を発揮している

新天地、シアトルへ

フランス語、英語、日本語のトリリンガルとなって日本へ帰国。帝国ホテルのフロントや、カナダ大使館のレセプショニストとして働き、当時のカナダ首相ピエール・トルドー氏(ジャスティン・トルドー前首相の父)の応対も務めたというのだから、その有能さがうかがえる。その頃、「幹子のために日本にいちばん近い街、シアトルに移ったから」と、アメリカからプロポーズを受けた。大使館職員としてのキャリアを天秤にかけざるを得なかったが、確実に積み上げられるキャリアよりも、何が待っているか分からないアメリカでの新しい挑戦のほうが、幹子さんには魅力的に映った。1977年、25歳でシアトルに移住した。ところが、その夫の不貞が発覚する。「こんな男とこれから50年も一緒にいられない!」と離婚を即決。慰謝料として学費を受け取り大学進学を決めた。やはり、ただでは起きないのだ。平日働きながら週末はコミュニティーカレッジで単位取得に励んだ。そこからの幹子さんの日々は、聞けば聞くほど大忙しだ。

1981年、コーネル大学で日本語を学んだというアメリカ人男性と2度目の結婚。政治部の新聞記者として働く夫とオリンピアでの生活が始まる。編入したエバーグリーン州立大学では、1歳の長男を教室に連れて、アートや環境学を学んだ。そんな折、オリンピア市が姉妹都市である兵庫県やしろ町(現・加東市)との友好の証として、日本庭園を造園する話が持ち上がる。実はその企画・立案をしたのが、幹子さんだった。大学の卒業プロジェクトとして、立ち上げから市との交渉まで下仕事に尽力し、7年をかけてヤシロ・ジャパニーズ・ガーデンを完成させた。

二人目の夫と結婚した1981年、来米し結婚式に列席してくれた父清二さんと

エバーグリーン州立大学の卒業式。日本庭園造園プロジェクトが卒業単位として見事認定された

次に関わったのは、現在も続くオリンピアの盆踊り。ある日系人の友人からの相談がことの発端だった。「盆踊りをやりたいんだけど、お寺もないしできないんだよね」。幹子さんの応えはもちろん、「やりましょうよ!」だ。「シルベスター公園にある東屋をステージに見立てて、提灯ちょうちんをともしてぐるぐる回ったら楽しいんじゃない? でも誰かが教えないと始まらないから、まずは私が習いに行きましょう」。その話しぶりから、当時の高揚した空気が伝わってくる。今のようにインターネットで何でも容易に調べられる時代ではない。タコマで日本舞踊を教えるT先生に頼み込み、炭坑節、ソーラン節、広島音頭、江州音頭、社音頭の5種をマスター。毎週末コミュニティー・センターで、日本文化になじみのないオリンピア市民を相手に、第三子妊娠中の身重の体でレクチャーした。これが第1回オリンピア盆踊り会の始まりだった。日本庭園も、盆踊りも、そこに一貫してあるのは、「みんなで楽しく集まり、日本文化を感じられる素敵な場所をこの地につくりたい」という幹子さんの思いだ。

恒例となったシアトルの盆踊りで。当時2歳だった末っ子のテシカさんを肩に乗せて

フルブライト・プログラム(米国政府が支援する国際教育交流プログラム)を利用して日本で博士課程に進んだ夫に帯同。テシカさんの日本での小学校の卒業式で。その4年の間にも、当時不平等だった都立高校帰国子女枠の入学規定に関する法律改正を成し遂げた

北米報知で残したもの

シアトルで1902年から続く邦字新聞、北米報知のゼネラル・マネージャーからある日電話を受けた。「日本にバケーションに行ってくるので、3週間だけゼネラル・マネージャーの代理を務めてくれないか」経験もないのだから無理だと断ったものの、そこにいてくれるだけでいいから助けてほしいと懇願された。人助けと思い引き受けたが最後、なんとそのマネージャーが3週間後に退職。さらに経理担当者まで急遽不在となり、思いがけず会社の厳しい財政状況を目の当たりにする。あれよあれよと言うまに幹子さんはその立て直しに奮闘することになる。

人手不足を補うため、記者、編集長としても奔走した。中でも幹子さんが担当した連載、日系二世の元米国軍人に話を聞いた「静かな戦士たち」は意義深い。日本軍による真珠湾攻撃後の1942年2月、ルーズベルト大統領による大統領令により、約12万もの日系アメリカ人が財産を没収され、強制収容所へ送られた。翌年には、17歳以上を対象に「合衆国に忠誠を誓うか」「日本への忠誠を放棄するか」を問う忠誠登録が実施される。その質問にノーと答えた者は「ノー・ノー・ボーイ」と呼ばれ、市民権を剥奪された。反対にイエスと答えた者たちは、米国陸軍情報部の諜報機関や、第442連隊戦闘団としてヨーロッパ戦線に送られた。「アメリカ人」としての自分を証明しようとした青年たち。その生き証人たちに、13回の連載を通して当時のことを思うままに語ってもらったのだ。「1988年にレーガン大統領が、あの強制収容は間違いだったと正式に認めて謝罪をするまで、やはり彼らは何もしゃべることができなかったんです。祖国のために戦っていたのに、日本から見たらスパイだったわけでしょう?」アメリカ人として戦ったことを「どう感じたか」と直截ちょくせつに尋ねたこともあった。「やっぱり当時は『嫌だった』と。日系人として生まれたことがね。でも今になって、『行って良かったと思う』と言っていました。『僕たちが戦って忠誠を示したからこそ、今あなたたちがこうしてアメリカにいることができるんだよ』って」。当時、ノーと答えたのか、イエスと答えたのかで分断された日系人社会。その過去について聞くと、「『僕たちは結局、ノーと言った者も、イエスと言った者も、同じことのために戦っていたんだ。自分たちの権利のために』と気づいたそうです」。幹子さんが話を聞いた直後に亡くなってしまった人もいた。高齢だったことはもちろんだが、「ずっと心にためていたことを話して、終止符を打ったような気持ちになったのか。自分たちがしたことは良いことだったと納得できて、ふっと心が楽になったのかなって……私はそう解釈したいんです」と複雑な胸の内を吐露する。しかし、彼らの最後の声を残すことができた、その功績は大きい。
※連載「静かな戦士たち」は北米報知ウェブサイトでも公開されている。
https://napost.com/ja/category/history/quiet-warriors

清二さんの他界後すぐ、シアトルの「ファーストレディー・オブ・ゴスペル」と呼ばれた故パトリネル・ライト牧師(右)のもとでゴスペルを始める。東日本大震災の翌年には、シアトルで募った募金や寄付を持って牧師とともに石巻を訪ね、コンサートを行った

2010年には三味線をスタート。アメリカでは新しいことを始めるのに年齢は関係ない

これから

今年2月、初孫の育児を手伝うために一時居住していた沖縄からシアトルへ戻ってきた。次はカリフォルニアで第二子の出産を控えた次女をサポートする。沖縄にいる間も、北米報知財団のファンドレイジング企画である日本旅行ツアーに、コーディネーターとして2年連続でボランティア参加した。もちろん今年の秋もその予定だ。4月にシアトルセンターで開催された桜祭りでは、自ら発掘した沖縄紅型びんがた職人のワークショップを企画。職人夫妻を招きブースを設置した。「それから、著書の英語翻訳をしたいとも思っています」

なぜこんなにまで精力的に活動を続けられるのか。そう問うと、「私、暇じゃダメなのね。つまらなくなっちゃう。面白そうだなって思うと、ぱっと動いてしまうの。物事すべて両面あるのが現実だけれど、私はなるべくポジティブな面を見るようにしています」。これぞまさに、幹子さんが父、清二さんから受け継いだレガシーなのだろう。幹子さんには大切な人からもらった強く心に残る言葉がある。「God never gives more than you can handle (神様は、あなたができる以上のことは決して課さないのよ)」。逆境はあろうとも、持ち前の明るさで、これからも忙しく充実した日々を突き進んでいくに違いない。

『ゼッケン67番のGちゃんー孫の句が 海を渡って父の日にー』 (ままがいい・編集室) 破天荒な父Gちゃんと、3人娘の次女である著者、そして3人の孫との心温まる30年の日々を軽やかな筆致で描く私小説。表紙はシアトルで活躍する切り絵作家曽我部アキさんが担当。パイク・プレイス・マーケット内のチン・ミュージック・プレスにて購入可能。

加藤 瞳
東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。ニューヨーク市立大学シネマ&メディア・スタディーズ修士。2011年、元バリスタの経歴が縁でシアトルへ。北米報知社編集部員を経て、現在はフリーランスライターとして活動中。シアトルからフェリー圏内に在住。特技は編み物と社交ダンス。服と写真、コーヒー、本が好き。