Home インタビュー メリー大野さん

メリー大野さん

12-PICT0020gv「自分にしかできないこと」とは何だろう? 数えきれないほどの辛いことや失敗を経験し、それでも自分の道を進み続けた。独り舞台で日本舞踊や長唄三味線を披露し、アメリカを中心に世界各地で日本の伝統芸能を紹介してきたメリー大野さんの人生。
歌舞伎アカデミー
www.kabukiacademy.org
取材・文:田中雄一郎

ちょっと変わった私の人生

「人ができないことにチャレンジする。」いつも父が言っていた言葉だ。私自身もそうありたいと願っている。

初めて渡米してNBCテレビ、モーニングショーで日本の伝統舞踊を披露したのが1965年、20歳の時だった。それから20年後の1984年、シアトルに歌舞伎アカデミーを立ち上げ、日本舞踊、長唄三味線クラスを教え始めた。これまでに優に500人を超える人々に教えてきたのではないか。

80年代アメリカで日本の伝統芸能を英語で教えている人はそう多くなかった。その頃、踊り、三味線を習いたい在米日本人は私よりずっと年配者で、かなりアメリカナイズされた方たち。考え方も日本に住んでいる日本人とはかなり異なっていた。

「アメリカでそんなこと言ってもメリー先生ダメよ。」と、日本の礼儀、エチケットを無視され、行儀作法を日本で厳しく習ってきた若輩者の私が、年配者のお弟子にしっかりと伝えることは難しく、心の中で葛藤が続いた。

一方、アメリカ人のお弟子さんたちはというと「英語で踊りを教えてくれるの?」と大喜びで、私の言う通りに挨拶を真似し、一生懸命楽しくお稽古に励む。その向学心には心打たれた。異国の人でもこんなに日本の文化を楽しんで学ぶ人たちがいるのだと、教えながら私自身が人生勉強をさせてもらった。

父と母の影響

父、平川唯一(1902年生まれ)は、16歳の時に単身アメリカに渡った。1937年に日本に帰国してから、NHK(当時JOAK)海外放送アナウンサーだった父は終戦後、マッカーサー元帥の指示もあり1946年から約10年に渡って英語会話のラジオ放送講師を務めた。軽快な「証誠寺の狸ばやし」の替え歌で始まるテーマソング「カムカムエブリバディ~♩」のラジオ番組はまたたく間に人気が出て、いまだにそのフレーズを覚えている人も多い。「楽しく学ぶ」が父のモットーであり、当時は、外国語講座や教育番組は他になかったこともあり、 毎日夕方15分の英会話番組を心待ちにしていた人が大勢いた。当時小さかった私は、ラジオから聞こえてくる父の声を聞き、姿が見えぬ不思議さからラジオの周りをヨチヨチ歩いていたことを覚えている。敗戦後の日本人に明るい気持ちを取り戻してほしい、その一心で父は番組を通して楽しく生きた英会話を教え、感謝祭やクリスマスなどアメリカに根付く文化も紹介した。

母は神田錦町で洋服屋を営む家に生まれ育った生粋の神田ッ子で、日本舞踊、清元をたしなんでいた。その影響で、私も幼少期から踊りの稽古をすることになり、長じては本田技研工業(株)外国部在籍中に長唄三味線も習い始めた。初めはただ趣味として続けていたが、1966年には日本舞踊(花柳芙美龍)、1974年には長唄三味線(杵家弥七蝶)共に名取りを取得し、本格的に教える道を志すようになった。

アメリカで日本の伝統文化を伝える

両親の「いいとこ取り」をした私は、それを武器に父の逆を行く「米国で日本の文化を英語で教える」道を切り開くことになる。

1962年、シアトルに住んでいた長兄を訪ねるチャンスを得た。「アメリカのテレビに出て、踊りを披露すれば?」日本にいた兄とシアトルの兄、2人の兄のこの言葉が、私の人生の大きな転機を作りだした。

子どものころから恥ずかしがりやだった私は、「英語はまだ満足にしゃべれないし、恥ずかしい」という思いから、最初は躊躇した。しかし、 アメリカで日本の伝統的な踊りを教えている人はほとんどいないのではないか、と考えた時に、これこそ自分にしかできないことだ、とひらめいたのだった。アメリカのテレビ局、新聞社に手当たり次第、英語で手紙を書いて送った。そして幸運なことに、NBCテレビ局から出演依頼のオファーが届いた。

テレビ局に着くなり、リハーサルもなくすぐカメラの前に座らされ、ライブで本番が始まった。当時はまだ日本の文化や着物など珍しく、矢継ぎ早のインタビューにあたふたと返答、そして『さくらさくら』の説明をして2枚扇で舞った。あの緊張感は50年経った今でも忘れられない。近所の人が「テレビ見たわよ、good job!」なんて言って褒めてくれたが、あまりの緊張で頭が真っ白になり、その時の記憶はほとんどない。

今振り返れば、この「怖い、でもやるしかない」という土壇場の経験が、私をシャイな性格から目立ちたがりに変身させてくれた瞬間だった。

日本とアメリカで二足のわらじ

40年前当時はアメリカと日本を年2回往復し、父の主宰するカムカム英語センターで英会話を教えていた。また、マクドナルド・ジャパン、新宿中村屋、資生堂等のビジネスマンにも父のメソッドで実用英会話を教えていた。シアトルに戻ると、今度は着物を着て三味線を持って学校や病院、老人ホームなどを訪問し、日本の文化を楽しく紹介した。日本ではアメリカ仕込みのホットな英語の言い回しを教え、アメリカのタコマ大学(日本語クラス)では日本の最新ニュースや面白い出来事を交えながら、日本語、日本文化、歴史などを教えた。私自身、教材に欠く事なく楽しみながらユニークな生きた会話や最新情報を教えられ、日米どちらの生徒たちも私のクラスを楽しんでくれた。

これまでに辛かったことや失敗したことは数えきれないくらい。でも、それを含めてすべてが自分の人生であり、肥やしとなった。私は、シアトルを拠点に米国25州そしてカナダ、南アフリカ等から招聘され、独り舞台で日本の伝統芸能(日本舞踊、長唄三味線)を披露し英語で紹介してきた。各州から名誉市民賞を授与され、日本国総領事館より感謝状も頂いた。多分、人様とはずいぶん異なる人生を送ってきているのではと自負すると同時に、巡り会えたたくさんの人たちに感謝している。

「この道より他に我を活かす道なし、されば我、この道を行く」

これが、私の座右の銘。