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北米報知の歴史 -戦後編-

安否を気遣うコミュニティーの告知板

取材・文 佐々木志峰

第二次世界大戦の日系人強制退去で姿を消したシアトルの日本町は、戦後、収容所から戻る人々によって再生が図られていった。日本語メディアも復活を求める声が上がり、1946年6月、現在も続く邦字新聞『北米報知』紙が創刊される。戦前の邦字紙『北米時事』の発行人、有馬純雄氏が編集長、『タコマ時報』紙で編集長だった生駒貞彦氏が発行人を務めた。生駒氏は北米報知財団の事務局長を務めるイレイン・イコマ・コ氏の祖父でもある。

「報知」には、収容所から帰郷を果たした日系人同士が互いの安否を確かめ合う告知板(=ポスト)との意味があった。有馬氏は「創刊のことば」で邦字メディアの再出発について記している。

「……あの人はどこで何をして居るのだろう―とか―又は、あの人々は何をやらうとして居るのかしら―と思ひ浮かべても、杳として知る由もない、何か報道機関が、欲しいものだと言ふ聲が擧げられてから既に半歳にもなるので、それでは一つ週刊誌でも出して、各地の情報交換に便宜を與へたらば、と考へついた結果が、この『北米報知』なのであります」――。

事務所は日本町の6thアベニュー。創刊当初はタブロイド版8ページで週1回だったが、48年に週3日、翌年に週6日と発行を増やした。日本から戻る日系関係者も増え、購読者、広告主といった支援層も広がり、日系コミュニティーの再生が強く感じられる。

皇太子夫妻、首相訪問を報道

1960年の皇太子、同妃殿下(現天皇、皇后両陛下)のシアトルご訪問では、10月5日付で「萬歳の聲に迎えられ皇太子ご夫妻ご到着 空港で日白人一千人が歓迎」と報じ、その後も日系社会の立場から来賓の歓迎ぶりを連日伝えた。1975年8月の三木武夫首相のシアトル訪問でも特集を組み、同記事は後日読売新聞に引用された。

紙面はノースウエストの日系移民史『北米百年桜』の著者、伊藤一男氏による「日本便り」をはじめ、コミュニティー記事、告知版、死亡記事、タコマ、スポケーン、ポートランドなど各地からの通信記事、小説、俳句、短歌などの文芸作品が掲載されていた。広告は航空、旅行、商店、美容院、レスランと日系ビジネスに加えて劇場、映画館、文化団体が名を連ねた。

一方、70年代に入ると、読者の中心となる一世の高齢化による発行部数減、郵送料のコスト増などが経営を圧迫し始める。廃刊の危機に直面するが、コミュニティーの厚い支援が窮状を救ってきた。74年は後援組織の寄付、81年は3カ月の休刊を経て日系社会幹部が「北米報知出版社」を発足し紙面発行が継続された。

北米報知出版社として再出発

1983年10月、事務所がジャクソン・ストリート沿いに移転。印刷方法の改革が行われ、活字を拾って組み上げるものから、和文タイプ打ちした記事を貼り付けるものに変換された。日本語ワープロも登場、当時の見出しには写植機が使用されていた。編集部、読者層は、戦後移民となる「新一世」が中心となった。

1988年は日系強制収容に対する米政府の賠償決定など、コミュニティーに歴史的意味をもたらした。北米報知でも当時宇和島屋のトミオ・モリグチCEO(当時)が発行人に就任。日系市民協会(JACL)全米大会のシアトル大会を機に姉妹英字紙『ノースウエスト・ニッケイ(Northwest Nikkei)』が月間発行されるようになった。同紙は2004年に北米報知英語面として吸収されるまで発行が続けられた。月間ビジネス紙『BZ JAPAN』も発行され、2002年には前身北米時事の創刊100周年号を発刊した。

1995年からコンピューターで組む現在のシステムを採用、2005年に無料配布開始、2010年に一部紙面をカラー化した。社屋は01年秋、ジャクソン・ストリートの事務所から旧宇和島屋ビルに移動。複合施設「Publix」の建設により、現在は区画内の平屋建て部分に移っている。

新聞発行ペースは徐々に落ち、現在は週刊となったが、創刊71年の今年も日英両語16ページで継続発行されている。

1946年に戦前の北米時事が北米報知として新たに再出発した創刊号
1960年の皇太子同妃殿下現天皇皇后両陛下のシアトルご訪問を報じた北米報知の一面記事