太平洋戦争中、激しい地上戦により多くの一般市民が命を落とした沖縄。戦後の米国占領統治を経て、この5月15日で日本復帰50年の節目を迎えました。「復帰後世代」であるワシントン州沖縄県人会の上原朝之(ともゆき)会長、そして娘一家が沖縄に暮らす『北米報知』元ゼネラル・マネジャー兼編集長の天海幹子さんに、沖縄についての思いを語ってもらいました。
上原朝之■1978年生まれ。沖縄県宜野湾市出身。2008年に渡米しMBA取得。2012年からシアトルに暮らす。2016年よりワシントン州沖縄県人会会長。
米軍基地と共に
沖縄は、私が生まれる6年前に返還された。しかし県民の宿願、「即時無条件全面返還」はかなわず、米軍基地は存続となった。普天間基地のある宜野湾(ぎのわん)市で育った私にとって、基地はあって当たり前のもの。道を歩いていればアメリカ人とすれ違うし、子どもの頃は地元で「外人住宅」とも呼ばれる民間開放された米軍住宅に住んでいた。米軍の空路の真下にある小学校に通い、ジェット機音で授業が中断するのは日常茶飯事。超低空飛行の飛行機は、パイロットの顔が見えるほどだった。
小学生の頃はちょうど基地の返還が始まった時期で、基地反対運動が起こっていた。1987年6月には、嘉手納(かなで)基地を「人間の鎖」で包囲する抗議運動があり、2万人以上の人が一斉に手をつないで基地を封鎖。私も教員をしていた父と参加した。米海軍基地で会計士として働いていた母が、顔を見られないようにしなきゃと気にしていたのを覚えている。米軍基地があるからこそ生活できている人たちもいたわけで、子どもながらに、それぞれ意見が違うんだなぁと感じていた。ただ、沖縄の人間には、「基地がある限り世界は平和にならない」という強い思いがあるのも確かだ。基地が存在するのは、どこかで戦争が起こっている、あるいは起こるかもしれないということだから。
子どもの頃には、草むらにも沖縄戦の名残の銃弾が落ちていた。箱に入った弾薬の束を拾って持ち帰ってしまい、父にものすごく怒られ、そのまま警察に届けたこともあった。県内には戦時中の不発弾がまだ約1,950トン残されていると言われ、今でも建設工事となると付近一帯が封鎖され、避難をするのが「普通」だ。
私たちの平和教育
沖縄戦の戦闘が終わった6月23日は沖縄の公休日で、「慰霊の日」だ。小学校では毎年、6月になると平和学習が行われる。日本の教科書では教えない内容もあり、特別な冊子が配られていた。遠足ではガマ(一般市民が防空壕として避難していた洞窟)を見学し、嘉数高台(かかずたかだい)という激戦地での課外授業もあった。
私の小学校の校長先生は、対馬丸(1944年に疎開船として民間人・学童を乗せ、那覇から長崎へ向かう途中に米軍の魚雷によって沈没)のサバイバーだ。ひどく生々しい体験談を聞いたのを覚えている。毎年、対馬丸を題材にしたアニメ映画「対馬丸—さようなら沖縄」(1982年)を見ては、「本当の犠牲者は誰なのか」、「戦後まで続く影響とは」といったことを教室で話し合っていた。
戦時中、私の家族は疎開をしていたので、実際の戦闘は目にしていない。でも周りでは、70年以上経った今でも生き別れた兄弟を探しているだとか、亡くなった家族の骨を見つけられないでいるといった話をよく耳にする。戦争はまだ終わっていないのだ。
ウクライナ危機など、「今起きていること」は大きな話題になるが、人間はすぐに忘れてしまう。沖縄でも戦争を体験し、話せる人が少なくなってきている。沖縄では、過ちを二度と繰り返さないという思いが強いだけに、どうやって次の世代に伝えていくかが重要な課題だ。世界で起きていることを忘れないように、身近な人と対話できる環境を整えることが大事ではないかと思う。
平和とは?
アメリカに来てから、「平和ってなんだろう」と以前より深く考えるようになった。沖縄にいた頃は「平和」=「基地がないこと」と捉えていたが、基地もなく、戦争をしないことだけが本当に平和なのかと。
人種差別やLGBTQの人たちに対する偏見、宗教観の問題、相手を知らないから起きる摩擦は日常生活の中であふれている。アメリカでこういった問題を目の当たりにすると、戦争がなかったとしても平和とは言えないのでは、と強く感じる。平和とは、もっと広い目で考えていかなければならないものだという気がしてならない。
それぞれ違った考え方や文化、価値観を持った人たちがお互いに理解をすることで、もっとみんなが幸せに暮らせる世の中になる。そうしたら、戦争も起こらないのではないか、と思うのだ。
問い合わせ:okkwa.uehara@gmail.com(上原朝之)
詳細:http://okkwa.org
沖縄返還50周年に寄せて
天海幹子■東京都出身。2000年から2005年まで姉妹紙『北米報知』ゼネラル・マネジャー兼編集長。「静かな戦士たち」、「太平洋を渡って」などの連載を執筆。2020年11月に日本に帰国。同年、著書『ゼッケン67番のGちゃん』を刊行。
沖縄に引っ越した娘婿が置いて行った本、山川宗徹(そうてつ)氏著『源点』を読み始めた。本土には入ってこない情報に、とんでもないことを知ってしまったと感じるのと同時に、当時ヨーロッパに留学していたというのは言い訳にしかならないが、自分の無知、不勉強を恥ずかしく思う。そして、この本に書かれた事実を少しでも多くの人に知ってもらいたい、これが私にできる償いのひとつと信じ、恥を忍んで書くことにした。
終戦から50年が経つ1995年(平成7年)に出版されたこの本は、著者が琉球政府の公務員時代に、沖縄の本土復帰を眼前に控えて書かれたもの。長兄、山川泰邦氏の日本政府への訴えを受け継いだ著者の宗徹氏が、一日内閣(国政に関する公聴会)で発言したところから本書は始まる。
終戦で、沖縄は日本の一部となったものと思い込んでいたが、実は1972年5月15日まではアメリカの統治下であったのだ。返還されて今年が50年目に当たる。つまり、戦後およそ27年間は植民地同様、通貨はドル、車は右側通行。琉球政府の下、都合の悪い時には米国から見放され、日本の国政参加はできず、佐藤栄作元総理によって表明された、非核三原則(1967年)の適応もなし。元総理は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わっていない」と名言を残した。ちなみに2021年3月31日時点で、沖縄の基地は日本全国77カ所のうち、31カ所。常時利用面積比では70.3%を占めている(防衛白書)。
戦前、那覇警察署の次席をしていた泰邦氏は1958年(昭和33年)に立法院議員に無投票で議席を勝ち取った。彼の闘いは、沖縄の施政権返還、本土との一体化(国政参加)それに嘉手納空軍基地からのB-52機の撤去であった。米国側は都合良く、帰還途中の燃料補給のためなどの理屈を付けるが、1968年2月5日以来、それまでグアム島を拠点としていたB-52爆撃部隊が嘉手納基地に駐留し、1日10数機の発着陸は県民を不安に陥れた。当時のベトナム戦争の激化、北朝鮮間の緊迫化もあり、国内で唯一、第二次世界大戦の戦場となった沖縄で、それがどんなに県民の生活を脅かしていたかは容易に想像できる。
施政権返還問題に関して、こんな悲劇も生まれている。1948年8月、伊江島埠頭で起きた弾薬運搬中の米軍上陸用舟艇(SLT)の爆発事故で100名以上の命が飛んだが、その補償問題で米国側は「平和条約締結以前の問題」として責任を取らず、日本側も賠償義務は日本にないとして、双方の責任のなすり合いになった。日本国が守れないのなら、沖縄の施政権者としての米国政府は、外交権のない琉球政府に代わり日本政府に対して賠償を要求すべきではないか、と泰邦氏は説いた。
弟、宗徹氏は本土復帰を翌年に控え、県づくり、ドル問題の2点に重点を置く「新生沖縄県づくり」を一日内閣で日本政府に提案した。当時、3兆3億円を投じた北海道開発庁に鑑み、沖縄開発庁を設置することを訴えたのだ。沖縄は道路の整備、水道、電気など産業開発、文化、教育、経済発展に欠かせないインフラも以前の北海道並みに遅れていた。そして1971年10月に、1ドル対360円の交換が実現した。戦後26年間の植民地時代に通貨の価値が変わる中、精一杯生きている県民の生活を支える試みのひとつだった。
第二次大戦中、国民は沖縄で苦悩を強いられた。沖縄戦に出撃した神風特攻隊、従軍看護隊となり洞窟で悲惨な最期を遂げた女学生たち、そして疎開を余儀なくされ本土に向かう途中で亡くなった子どもたち。小学生800人近くを乗せた船が米軍に爆撃されてしまう対馬丸事件がよく知られる。18万8,000余りの尊い命を犠牲にして、沖縄戦は幕を閉じた。
「英霊の最期を忍びご遺族の悲しみに思いを致す時、痛恨の情切々として胸に迫り、お慰めの言葉もありません。われわれは英霊に報いるためにも、この尊い犠牲を世界平和の礎として、永久に歴史に残さなければならないと思います」。沖縄全戦没者追悼式における、立法院議長時の泰邦氏の言葉である。
2年前、娘たち家族が沖縄に引っ越すに当たり、住居探しに立ち寄った家から出てきた宗徹氏。著書をいただき、そのままになっていた。娘婿がその本を私の家に置いていったのは去年5月。実はその1カ月前に宗徹氏は享年89で亡くなっていた。偶然に私の手に渡ったことは何かのご縁と思っている。ありがとう、宗徹さん。
ご冥福をお祈りします。