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藤野亜紀さん〜音楽家

ベルビューを拠点に、クラシックピアノ奏者、ジャズ・ミュージシャン、ゲーム音楽クリエイターと、ジャンルを超えマルチに活躍する藤野亜紀さん。その豊かな創造性の根源にあるものは何でしょう。多才な音楽家の原点を探ります。

取材・文:加藤 瞳
写真:本人提供

藤野亜紀■ 幼少よりヤマハ音楽教室でクラシック音楽に親しみ、専門学校生時代からソロリサイタルなど数多くの演奏活動を行う。卒業後に日本銀行に勤務し、ヤマハ音楽教室講師へ転職。結婚を機に渡米すると、バークリー音楽大学ジャズ作曲科に入学し中退後、メリーランド州での生活を経てシアトルへ。現在はすぎのこスクールの音楽ディレクター、教会の専属ピアニスト、バイオリン/チェロと共演するコラボレーティブ・ピアニストを務め、ゲーム音楽のピアノ・アレンジを手掛けるなど多岐にわたって活動中。

音楽観を変えたバンド活動の日々

福岡生まれ、横浜育ち。3歳でヤマハ音楽教室に通い始めると、その才能が開花した。8歳で作曲活動を始め、ヤマハ音楽教室のジュニアオリジナルコンサート入賞の常連に。中学へ入る頃にはすでに音大進学を決意していた。ピアノの練習時間を確保するため、自転車で通える近隣の高校に入学すると、そこで思いがけない転機を迎える。

ヤマハ音楽教室幼児科に通う6歳の頃前列右端が亜紀さん

ピアノが弾けるならと誘いを受け、気軽に始めた軽音楽部のバンド活動でフュージョン(ジャズにロックやラテンなどの要素を取り込み、60年代から70年代にかけてアメリカで誕生した新たなサウンド。日本では80年代に流行)と出合った。特に、当時絶大な人気を誇ったバンド、カシオペアにすっかり夢中になった亜紀さん。「それまでクラシックしか知らなかった私が、カシオペアのコピーバンドを始めたら、もう楽しくって! バンド活動は音楽観を変えてくれました。それが今の私のルーツなんです」。音大受験に向けクラシックの勉強を続けながらも、バンドに熱中する日々を過ごした。

バンド活動に目覚めた高校生時代
軽音楽部部長を務めた専門学校時代には、
さまざまな楽器に挑戦

ところが、迎えた受験は「悲惨」だった。一般的に、最も難関とされるピアノ科を志す生徒は、試験に向け1日8時間から10時間とも言われる練習時間を何年も費やし準備する。しかし入試当日、そうして仕上げた課題曲の演奏を、突然飛ばされるという事態が発生したのだ。その後、大学側の落ち度だったことが発覚し、再試験が行われ合格したものの、この出来事は、亜紀さんが改めて自身の進路について考え直す契機となった。同時に、日本のクラシック音楽界の閉鎖的な慣習について疑問を持ったと言う。

「音大でピアノを勉強して、私は一体何になりたいんだろう、と立ち止まってじっくり考えました。それで行くのをやめちゃいました。これが人生のターニング・ポイントだったと思います」

日本銀行では経営企画を任されるまでにその傍らミュージシャンとして演奏活動を続け目の回るような忙しさ

周囲の期待を背負った中での進路変更は、相当な覚悟が要ったはずだ。「私が音楽の道に進むことをいちばん応援していたのは祖母でしたが、半年も口を利いてくれないほどショックを受けていました。音大ひと筋に受験を目指してきた私は国語と英語しか準備しておらず、その2科目だけで受験できる学校を探して、津田スクール・オヴ・ビズネスという専門学校に進みました」

専門学校では自ら軽音楽部を立ち上げ、さらにバンド活動に没頭した。音楽留学を考え、就職活動もそっちのけ。そんな亜紀さんが卒業後、意外にも日本銀行に就職したのは、堅実な職に就いて欲しいという父の強い勧めがあったからだ。「今となってはそれで良かったと思います。音楽しか知らないで来たけれど、就職したことで、より社会的な物事の見方を学びました。何より、自分は本当に音楽が好きなんだと実感できたんです」。この頃に出会った夫との縁も、音楽がつないだものだった。「教会でピアノ奏者をしていた時に声をかけられたんです。『ピアノを勉強したいから、一緒に買いに行ってくれないか』って」。結婚を機にヤマハ音楽教室講師に転職。しかし、わずか1年ほどで渡米することに。

メリーランド在住時自宅で開いたピアノ教室にて育児真っただ中のレッスンは保護者に子どもの面倒を見てもらうなどの支え合いが欠かせなかった

クラシックから、「なんでも弾ける私」へ

アメリカ行きの話には運命的なものを感じたと言う。「夫がボストンのマサチューセッツ工科大学に研究員として招かれたんです。ボストンと言えば、憧れのバークリー音楽大学がある街です。これはもう行くしかない!と思いましたね」

バークリーではひと回り年下の学生たちと共に学び毎日が楽しくて仕方なかったジャズの基本であるインプロビゼーションアドリブに最初は苦戦しました

代音楽の世界的名門であるバークリー音楽大学に、飛び級での入学を果たした。専攻はジャズ作曲科。バークリーでの日々は、「毎日がキラキラしていた」と回顧する。「クラシックは、譜面の1音も間違えずに弾くことが正しいとされる世界。それに対してジャズは、譜面に情報がほとんどないんです。たとえば、サックスのパートにはピアノのことは何も書いていない。じゃあピアノは何をしたら良いの?というところからわからなかった。毎日学ぶことがたくさんあって、あのバークリーの時代が人生の中でいちばん楽しかったかもしれません」。残念ながら、夫の転職と思いがけない妊娠によって卒業を前に去ることとなったが、それでもあの頃の思い出は色鮮やかに心に残っている。

コラボレーティブピアニストとしての指導は亜紀さんのメインの仕事のひとつ弦楽器の生徒に伴奏者としてではなく共演者として演奏をすることで総合的に音楽の作り方を教える

メリーランド州に引っ越し、産後は自宅でピアノ教室を開講。2005年にシアトルへ移ると、ますます活動の幅を広げることとなる。ベルビューのウエストミンスター・チャペルで、ボランティアとしてピアノを弾き始めたことから専属ピアニストに。さらにはレイク・ワシントン・シンフォニー・オーケストラ(以下LWSO)との共演をきっかけにオーケストラの一員としても活躍。「理想は、どんな音楽もこなせるピアニスト。クラシック音楽というのは閉ざされた世界ですが、クラシック以外の音楽との懸け橋になれる存在でありたいと思っています。さまざまな仕事に挑戦し、クラシックの世界に、ほかの音楽も素晴らしいんだと伝えていきたい」

そんな亜紀さんの仕事に対する姿勢は、LWSOの音楽監督で指揮者のローリー・バーティグ氏の影響も大きい。「クラシック、ジャズ、ポップス、どんなジャンルでも指揮ができる人なんです。初めて共演した時は、あまりに多様な要求にすごく戸惑いました。たとえば、ここはモーツアルト風に、ここはラフマニノフのように、そうかと思えば、ここはアドリブでといった具合。ほかの楽器は楽譜通りに弾くから、君は楽譜にないものを弾いてくれと言われたこともあります」。最初の2、3年はついていくために相当な努力が必要だったと亜紀さんは振り返る。「それで、なんでも弾ける私になる!と意識が変わりました。学べば学ぶほど、自由に弾けることがすごく楽しいんです」

指導者として音楽と関わる

演奏家である傍ら、指導者としての顔も持つ。幼児教育機関で音楽を教えて15年。そのきっかけは過去の苦い経験にあった。「日本のヤマハ音楽教室で教えていた時に、親御さんとトラブルがあったんです」。グループ・レッスンが基本のヤマハ音楽教室では、10人ほどの幼稚園児を一度に指導する。その中に、じっとしていられず、つい周りの生徒の邪魔をして回ってしまう子どもがいた。当時、子どもを持たなかった亜紀さんは、どう対応して良いのかがわからなかったそう。

より日本の近くで暮らしたいと一家でシアトルへ移住中華系の夫息子娘と共に

「上手に叱ることもできず、先生として甘かったんだと思います。それを後ろで見ていた親御さんが、『先生はあのように落ち着きのないお子さんがいる状況をどのようにお考えですか』って。でも、どのようにと聞かれても、全然わからなかったんですよ」。みんなで一緒に勉強できる環境作りをしたいと、「長い目で見て温かく見守りたい」と答えると、「そうですか、よくわかりました」とひと言。そして翌週、ほかにも何人か引き連れて辞めてしまった。「そのことがひどくショックで、ずっと心に引っかかっていました」

シアトルに転居してすぐ、子どもを通じてイーストサイドの日系幼稚園で働く女性と知り合った。子どもを育てながら働くことができ、またピアノが弾ける人材は重宝されると聞き、すぐに面接を受けた。「その根底には、子どもとの関わり方を学びたいという思いがありました。ピアノだけでなく、どう子どもに接するかがわからなければ教えられない。この15年、1日たりとも同じ日はなかったと言えるくらい、毎日が学びでとても刺激的です。目からウロコのことばかり起こっている感じです(笑)」

LWSOではオーケストラの一員でありソリストとしても活動またゲーム映像とのコラボレーションという実験的なコンサートもシンセサイザーを用いいろいろな効果音を奏でる

パンデミックで考えたこれから

常に表現者として人前に立ち続けてきた亜紀さんにとって、このパンデミックはこれまでの人生で最も苦しい時間となった。ほぼ全ての公演や仕事がキャンセルとなり、「もう再起不能かも」と頭をよぎるほどに落ち込む日々を過ごした。

シアトルの日本人歌手たちとベルカント唱法を発信する活動もコロナ禍の現在は動画で取り組んでいる

「音楽のことすら一切考えたくないという時期もありました。幸い、幼児教育機関での仕事はあったので、ひたすら専念することにしました。園に来られない子どもたちを元気付けられるように、動画作成も学びました」。このことが今は別の仕事に役に立っているそう。「ゲーム音楽に携わる仕事を通して、テクノロジーが音楽と切っても切れないものだとわかってきました。自分のしていることを相手に伝えるためには動画の活用が必須。どうやったらきれいに音が録れるのか、そういったことも含めて、パンデミックのような状況に左右されないためにも、ミュージシャンはテクノロジーを学んでいかなければならない時代ですね」

教会専属ピアニストとして活動するウエストミンスターチャペルでバンドミュージシャンと新リーダーに就任したシンガーソングライターのエリオットリー氏右端とロックスタイルに挑戦中

LWSOでの活動はいまだ再開していない。今後は、動画で伝えていく音楽の道を探りつつ、人を育てるということにも、より目を向けていきたいと考えている。また忙しい日々が戻ってきそうだ。

加藤 瞳
東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。ニューヨーク市立大学シネマ&メディア・スタディーズ修士。2011年、元バリスタの経歴が縁でシアトルへ。北米報知社編集部員を経て、現在はフリーランスライターとして活動中。シアトルからフェリー圏内に在住。特技は編み物と社交ダンス。服と写真、コーヒー、本が好き。