▲2023年9月、書道を通じての日本文化の普及、日系コミュニティーでの活動を評価され、在外公館長表彰を受けた(在シアトル日本国総領事館提供)
17歳で渡米。21歳で結婚。以来、長年にわたり、寿司職人の夫の店を盛りたてながら、育児と仕事に追われる毎日を過ごしてきました。現在は書道の活動で、シアトル、ロサンゼルス、日本を飛び回ります。常に全力の加柴律子さん、そのパワフルな生き様に魅了されます。
取材・文::加藤 瞳 写真:本人提供
加柴律子■熊本市生まれ。1966年、家族と共に母の故郷、シアトルへ。1978年に米国書道研究会シアトル支部にて書道を始め、以来、生田博子現会長に40年以上師事。産経国際書会の認定を受けながら研鑽を積む。現在は産経国際書会理事、米国書道研究会副理事長/シアトル支部長を務め、伝統芸術普及のために書道の実演を行うなどしている。
米国書道研究会 シアトル支部 教室
時間:毎水曜日 12pm〜2pm
場所:シアトル日蓮仏教会
1042 S Weller St., Seattle, WA 98104
問い合わせ:加柴 206-779-2764
藤井 206-230-0765
時間:毎水曜日 12pm〜2pm
場所:シアトル日蓮仏教会
1042 S Weller St., Seattle, WA 98104
問い合わせ:加柴 206-779-2764
藤井 206-230-0765
家族と九州からアメリカへ渡る
生まれは熊本県熊本市。戦前、日本で教育を受けるためにアメリカから祖母と来日した「帰米2世」の母の娘として、6歳年上の兄、双子の兄と育った。九州の片田舎で、日系アメリカ人の母、クララさんは少し異質だったと言う。「周りはまだ敵国の人という目で見るような時分ですから。でも母はとても陽気な人で、ものすごくおしゃれでしたね。子ども時代はそれこそ、アメリカでフランス人形みたいな格好をしていたわけです。私もスカートばかり履かせてもらっていました」
▼いつも一緒だった双子の兄、真二郎さんと。真二郎さんは宇宙航空工学を専門とし、ロケットエンジンの設計に携わった
小学低学年で両親の離婚を経験。祖母を頼り、熊本県人吉市に移った後、一家で福岡へ転居。クララさんは数年後、アメリカ人と再婚した。母は、戦争によりアメリカに残った家族と引き離されていたため、律子さんは幼い頃から、「いずれはシアトルに帰るよ」と聞かされていた。ついに、律子さんが高校2年の時、1年先に留学生として渡米していた長兄の誠一さんと叔母の待つシアトルへ。「母は日本が合わず、アメリカへ帰りたいと常々思っていたようです。でも、私は真逆。最初は本当に大変でした。福岡で私立の女子高校に通っていた私が、それまでハリウッド映画のイメージしかなかったアメリカの公立校にポーンと放り込まれたんですから」。特に英語には苦戦した。「1年遅れの学年に編入したものの、年下にもかかわらず身体の大きな同級生たちに圧倒されましたね」
当時のシアトルはまだI-5もなく、物流も豊かとは言えなかった。日本の食材を扱う店はあるが、福岡から来た律子さんの目には戦後間もない頃と変わらないように映った。「私にはアメリカは合わない。高校が終わったら、絶対にひとりで日本へ帰ると決めていました」
しかし、娘を日本に返したくない母は一計を案じる。兄ふたり、叔母と家族ぐるみで引き留められ、語学学校へと入れられてしまう。「そしたら楽しかったんです。それでそのあとも、家の近くのコミュニティー・カレッジに通うことにしました」。そこで出会ったのが、後の夫、寿司かしばで今も現役の加柴司郎さんだ。「スクールボーイ、スクールガールというシステムがあって、寿司職人として働きながら学生ができたようです。7つ違いで、お兄さんという感覚でしたね」
司郎さんとの距離が縮まるきっかけとなった面白いエピソードがある。「知人が、車を売りたい人がいる、どうやら良い車らしいって言うんで買ったんです。ビュイックのスカイラークでした。でも私、運転免許を持っていなくて……」。免許取得のために運転を教えてくれたのが司郎さんだった。「自動車学校に通うつもりでしたが、彼に習った人がみんな試験に合格しているよって周りの評判を聞いて、お願いすることにしました」
大忙しの日々を駆け抜けた40年
不安定な職業に思われた寿司職人との結婚に家族は大反対。そんな中、兄の誠一さんが「彼はすごく良い人だよ」と口にしたことが大きかった。「私はお兄ちゃんっ子だったので、兄がそう言うなら、と。母もそれなら信頼できるって」。誠一さんは後にワシントン大学工学部教授として教鞭を執るが、当時は日本食レストランでアルバイトをしていた。
◀︎ 義母(右)、義妹(手前)と共に司郎さんの故郷、京都での結婚記念撮影
1970年に司郎さんと結婚。1971年、息子のエドさんが誕生した。現在、エドさんは寿司かしばと、その姉妹店に当たるタカイ・バイ・カシバのマネジメントを手がける。翌1972年には司郎さんが自身の店、日光レストランをインターナショナル・ディストリクトにオープンしたが、律子さんはその時24歳。「何の経験もなかったので、どこかの店へトレーニングに行ったほうが良いかしらと聞いたけれど、『君は何もしなくていいよ』って言うんです。そうもいかないわよね……ってお手伝いに入ったら、もう最後ですよ」と笑う。やがて日本でバブル景気に入り、日系商社、銀行等がシアトルにオフィスを次々と開設。駐在員がこぞって来店し、12部屋234席の店内が毎晩のように満室、満席という盛況ぶりだった。
▼1992年、シアトルのウェスティン・ホテル内で日光レストランが新装オープン
律子さんも、夕方からエドさんを叔母に預け、店で働いた。とにかく忙し過ぎたと振り返る。「生活に必死で、自動的に体が動いていた感じ。それが20年続いたの。よくやったなと信じられない思いです。おしぼりは持ち帰って、その日の夜に洗っていましたし。何も知らない私は、おあいそなんて言われても『はぁ?』という具合。経理は当然素人でしたが、支払いを遅らせないことだけが頭にずっとあって、一生懸命頑張りました」と胸を張る。
その一方で、1980年から昼はシアトル・タコマ国際空港で働いていた。まだ英語を話せる日本人が少なかった時代、世話好きだった母の影響もあり、何か自分にできることはないかと、大好きな空港で働くことを思い立つ。兄の誠一さんからは無理だろうと言われたが、どうしても外に出てみたくて、「1日数時間だけだから、ものは試しに」と説得した。
日本からシアトルに戻る際、ハワイを経由し新婚旅行。流行のミニスカート姿がまぶしい ▶︎
空港の入国審査で、日本から来た便の乗客の通訳として勤め始め、1983年にユナイテッド航空によるシアトルからの日本定期便が就航すると、それを機にユナイテッド航空に入社。「昔はほぼ団体旅行で、添乗員さんがみんなのパスポートなんかを全部預かり、ビザもお客さんはサインするだけ。だから、入国審査で何を聞かれてもわからない。審査官は決まった質問をしてくるとは限らず、冗談も言いますよね。お客さんは緊張して汗ダラダラで固まってしまい、怪しまれちゃう」
そこで間に立つのが律子さんの仕事だ。「腹巻きに現金を入れていたり、奥さんが荷造りしているから自分の荷物に何が入っているのか全然知らなかったり、アメリカ人にとって信じられないことばかり。私が全部説明しなくちゃいけなかったんです。本当に文化の違いには困ることがありましたね」。空港の仕事が肌に合っていたのだろう。以降2018年まで、ユナイテッド航空のVIPカスタマーサービス・スタッフとして勤務を続けた。
▲ユナイテッド航空退職時に、同僚たちから贈られた分厚いアルバムの中の1枚は、特に仲良しだったふたりと。律子さんの人柄が伝わってくる
書が生活の一部に
◀︎ 武者小路実篤の言葉を書いた、産経国際書展での受賞作品。律子さんは、日本人である以上はひらがなを、という師の信念に賛同し現代書を専門とする
1978年の書道との出合いにも、例の「車を売ってくれた知人」がまた関わってくる。「日本から國井誠海っていう大書家が来て、店の近くでワークショップをするから、ぜひ来てくれって言われたんです。仕事書道の楽しさは、 二度と同じものは書けないこと着の着物のまま走って行って、会場に入ったら、墨の匂いがすごく心地良くて、心が落ち着きました」。これが、書道と「恋に落ちた」瞬間だった。
律子さんは、このワークショップにロサンゼルスからサポートとして駆け付けた、米国書道研究会の生田博子現会長に師事することに。同じ年、シアトル支部の発足を聞きつけ、忙しい合間を縫いながら書道を学び始めたのだ。週に一度、水曜夜には店を抜け、シアトル日蓮仏教会で行われる稽古に参加した。ロサンゼルスを拠点に活動する生田会長には、実地での指導を年に数回受けながら、普段は郵送した書を添削してもらう。それは今も続いている。
「好きな書家は私の先生」と律子さんが敬愛する生田会長と、2023年11月にロサンゼルスで開催された「パス・オブ・ブラッシュ&インク:カリグラフィー・エキシビション」にて▶︎
米国書道研究会シアトル支部は、翌1979年にシアトル桜祭りへの出展と実演を開始。律子さんは着実に腕を上げ、1993年、日本の4大書道展のひとつである産経国際書展にて、応募総数1万439点の中から公募の部特別賞受賞を果たした。「武者小路実篤の言葉を書いたんですけれどね、先生に『言葉は平凡』って言われちゃいました(笑)」。書道では言葉選びも評価の対象になるそう。「見る人に感動を与えるのが、まずは言葉ということです。書道の楽しさは、二度と同じものは書けないこと。書き直すこともできない。ノーコレクションなんです」
現在、年に少なくとも3点は日本の書道展に出品している。1作を書き上げるのに、100枚は書き、99枚がボツになる。「リタイアして時間があるから書けるってものでもないんですよ。どういう作品にしようかと考える、練る時間が重要。肩肘張ると逆に書けないので、リラックスしたほうがいい。何はともあれ努力、練習あるのみです」。基礎を学んでからも、深く入れば入るほど新しい世界が開けてくる。律子さんが取り組む作品からは探究心が垣間見える。「お手本は、大体が中国の原著に当たるのですが、そもそも読めない。日本語にない漢字もありますから。どんなものなのだろうと、書の流れに注目したり、解説を調べたりしているうち、その書家のことをだんだん理解できるようになっていきます」
◀︎ ▲展示会の準備にはいつも夫の司郎さんが手伝いに駆り出 さ れ る そ う。 東京 五 輪 に 際 し、モ ット ー の「United by Emotion」を書にしたためた
今後について尋ねてみた。「微力ではありますが、自分に手伝えることがあれば、イベントなどにもどんどん参加したいですね」。この取材後もすぐ、日本とロサンゼルスで仕事だと言う。誰かのためにという母譲りの気質、どんなに忙しくても好きなことを追求していくポジティブさが、律子さんのエネルギッシュな生活の根幹にあるのだろうか。
▲昨年行われたワシントン州日本文化会館(JCCCW)のサマーキャンプで、米国書道研究会シアトル支部の面々、JCCCWのスタッフと
▲母、クララさんと。歳を重ねてからも美しくヘアをセットし、赤いブレザーがお気に入りだった