現役を離れて新しいステージへ国際社会に還元を
国際連合経済社会局元官房長 田島幹雄さん
30年以上の長きにわたり国連職員として国際平和のために奮闘してきた田島幹雄さん。戦後間もなく19歳で単身渡米を決意した経緯から、アメリカでの大学生活の思い出、国際公務員時代の経験まで、貴重な話をたっぷり聞くことができました。
取材・文:小川祐理子
田島幹雄 1934年神戸生まれ。国際連合経済社会局元官房長。関西学院大学経済学部中退後、1953年に渡米。カリフォルニア大学バークレー校で国際関係学士、コロンビア大学大学院で国際行政学修士を取得。国連職員として国連本部や国連貿易開発会議などに勤務し、退職後は関西学院大学名誉教授を務める。現在、シアトル在住。85歳。
「陽の当たる場所」を求めて渡米
私が子どもの頃、日本は第二次世界大戦の真っただ中。生まれ育った神戸の町は空襲を受け、父が営んでいた洋酒店は焼け尽くされました。この空襲により母と死別し、苦しい幼年期を過ごしました。戦後はミッションスクールである関西学院に進学。中学から大学1年次まで同校に在学し、ESS(英会話サークル)部長として、英語の勉強に没頭していました。学校で英会話を教えていたアメリカ人宣教師との交流を通し、アメリカ文化を学びながら生きた英語を習得していくうちに、アメリカに対する憧れを抱くようになっていきました。
選択を迫られたのは、突然のことでした。ある日、父に呼び出され、「商売がうまくいかない。大学を卒業させるのは難しいから、中退するか、自分で学費を稼いで通ってくれ」と言われたのです。とてもショックを受けました。大学で学ぶ意欲のあった私は、バイトと勉学の両立を決断。家庭教師や保険の勧誘などの仕事をしながら通学しました。フルタイムさながらのスケジュールで働いていたため、講義を欠席しなければならないこともしばしば。まさに苦学生でした。次第に限界を感じるようになった私は、「苦しいのは同じなら、思い切って場所を変えよう!」と思い立ち、憧れの地であるアメリカへの留学を決意したのです。当時、お世話になっていたアメリカ人宣教師からの推薦のおかげで、無事にカリフォルニア大学バークレー校への編入が決定。授業料は奨学金で、現地での生活費はバイトで賄うことにしました。1953年、19歳にして日本郵船「氷川丸」に乗り、ついに神戸を出発。約1カ月に及ぶ船旅の後、降り立ったのは、ワシントン州シアトル港でした。
アメリカでの学生生活
終戦を迎え、日本国内は海外に住んでいた日本人が強制送還されたことで、深刻な人口爆発問題と食糧難に苦しんでいました。この解決策をどうにか見出したいと考えていた私は、カリフォルニア大学で人口学を学びました。自信のあった英語力は、講義では全く通用せず、教授の話を聴くので精いっぱい。実践的なケーススタディ(事例研究)や膨大な量の課題も抱え、何とか切り抜けるのに必死でした。勉強と並行してバイトもしなければなりません。週5日、毎日6時間、校内のカフェテリアで皿洗いをし、週末は教授宅で芝生の手入れをしながら生活費を稼ぎました。くたくたで寮に戻ったあと、眠い目をこすりながら勉強に励んだ日々は、今でも忘れられません。
「将来、国際社会に奉仕する仕事がしたい」と考えていた私は、より専門性を高めるべく、国際連合(以下、国連)との結び付きが強いコロンビア大学院に進みました。ここでは、これまで社会福祉の面から学んでいた人口学について、より視野を広げ、国際関係学や行政学的視点からアプローチします。夏休みにはニューヨークにある国連本部でのインターンシップに参加し、国際行政について実践的に学びました。国連とは、世界の平和と安全および国家間の友好関係構築を目的とし、あらゆる分野における国際問題に取り組む国際機関です。現在の加盟国数は193カ国。文化・言語・宗教・価値観を異にする国々の職員が一丸となり、中立かつ公正な立場で国際社会の平和的な発展に向けて働いています。私がインターンシップで配属されたのは、植民地問題を取り扱う部署でした。ベネズエラ人の上司から指導を受けながら「アフリカ大陸の植民地の経済発展に、国連の技術援助はどう影響を与えているか? その成果と問題点は何か?」という報告書を取りまとめました。
インターンシップに参加するメリットは、実際の業務を経験すると同時に職場環境を知ることができる点です。私にとって特に印象的だったのは、国連では多様なバックグラウンドを持つ人たちが共通の目的に向け、協力し合いながら働いていること。本国のために働く外交官とは異なり、中立的に国際問題に取り組める点に魅力を感じました。国連でのインターンシップ経験は、私にとって国際公務員を目指すきっかけとなったのです。
国際公務員としてのキャリアがスタート
大学院を出ると、発展途上国の経済・社会開発を援助する国連技術援助局(UNTAB)に2年契約でトライアル採用されました。現在の国連開発計画(UNDP)の母体となる機関です。日本人として採用されたのは私が初めて。職員として生き残るのはとても厳しい世界で、多様な国の人たちが働く内部での競争は、熾烈を極めました。自分がこれまで培ってきた語学力や専門知識も、英語を母国語とするハーバード大学やオックスフォード大学などの名門校出身者にはかないません。そこで私は、「スピード」で周囲と差を付けようと考えました。たとえば、会議の議事録作成では文法は完璧でなくても、要点を押さえた簡潔なメモを作り、翌朝上司が出勤する前に上司の机上に提出することを習慣付けました。競争の激しい国連では、「使いものになる」と上司から認められた人にはどんどん仕事が回ってきます。逆にそうでない職員はだんだんと仕事量が減り、契約が更新されません。会社がキャリアの面倒を見てくれる日本とは違い、自力で仕事を生み出し、次のステップを開拓していかなければならないのです。このように、私はスピードを武器に仕事に取り組むうちに、周囲から仕事を任されるようになりました。そして2年契約のあと、永久契約に昇進。晴れて正規の国連職員として採用されたのです。
正職員として採用されて以降は定年退職するまでの33年間、スイスのジュネーブにある国連貿易開発会議(UNCTAD)やニューヨーク国連本部事務局経済社会局(DESA)で勤務。先進国と途上国との格差を是正すべく奔走しました。
85歳で目指す次のステージ
国連に入って、上司からこんなアドバイスを受けたことがあります。「1カ所に留まらず、積極的に仕事を変えること。いろいろな分野で経験を積み、木ではなく森全体が見えるようになること」。私は国連での30年以上にわたるキャリアの中で、「発展途上国のための経済発展」、「先進国と発展途上国の格差の解消」という一貫したテーマを持ちながら、国連本部やUNTAB、UNCTADなど異なる環境で仕事をしてきました。また、退職後は母校である関西学院大学の教授に就任し、国際関係や紛争解決の講義を担当。夏休みには、国連の活動を次世代に引き継ぐべく、学生を連れてニューヨークでの国連研修ツアーも実施しました。この関学国連研修ツアーは昨夏で20年目を迎え、これまで約400名が参加しています。
現在は現役を離れ、シアトルで暮らしています。長きにわたりお世話になった国際社会に恩返しができるような取り組みに挑戦するというのが、次のステージの目標です。シニアの方も人生まだまだこれからという気持ちで頑張って欲しい。そして、これから社会を引っ張る若い世代の方々にはもっと外に目を向けて世界に関心を持って欲しいというのが、私の切なる思いです。
2004年に出版された著書
『元国連職員から若者へ―「陽の当たる場所」を求めて―』
次世代の人たちに国連の活動についてより知ってもらいたいという思いから執筆されたエッセイ。アメリカでの苦学生活や国際公務員としての現役時代の奮闘ぶりなど、田島さんのこれまでの波乱万丈の道のりが赤裸々に語られている。そのメッセージに胸が熱くなることもあれば、思わずクスッと笑える場面も。留学での過ごし方のヒントが欲しい人、国際社会で活躍したいと考える人、国連の活動に興味がある人におすすめの作品だ。