シアトルで宝塚のステージを再現 えまお ゆうさん
歌で人の心を救いたい
5月31日、マーサーアイランドのコミュニティー&イベント・センターで行われた、日本文化・芸術の維持活動団体、ジャパン・アーツ・コネクション・ラボのファンドレイジング・イベントに、元宝塚雪組トップスター、えまおゆうさんがスペシャルゲストとして登場しました。インタビューを通して、謎に包まれた宝塚の世界、そしてえまおさんの素顔に迫ります。
(取材・文:加藤 瞳)
えまお ゆう
1987年宝塚歌劇団入団。星組に配属され、歌、ダンス、芝居の三拍子がそろった華やかな男役スターとして活躍した。2002年には雪組トップスターに。同年9月の退団以降は、多数の舞台ほか、ディナーショー、TV出演、ボランティア活動など多方面で活動。2018年1月には、芸能生活30周年記念ミニアルバム「UnSourire」をリリースした。
負けん気と度胸で宝塚へ
伯父は劇作家の矢代静一氏、従姉は元タカラジェンヌの毬谷友子さん、そんな芸能家系の環境で育った。先に宝塚に興味を持ったのは11歳上の姉だったが、伯父が「この子は何か持っている!」と太鼓判を押したのは姉ではなく、まだ小学生のえまおさんだった。以来、姉からの期待を一身に受けるように。「急に毎日、牛乳を飲まされるようになっちゃって(笑)。そんなに言うなら、まあ受けてやってもいいけど、くらいの感じでした」。しかし、高校1年の進路相談で第3希望に「宝塚」と記入すると、「そんな甘い気持ちじゃ、できるわけない」と、周囲から責め立てられてしまう。負けん気の強いえまおさんは、「じゃあ、やってやるよ!」と発奮。本格的に宝塚に入るための勉強に取り組み始めた。
「中学時代は山田邦子さんに憧れていて、お笑い芸人を目指していた時期もありました。人を笑わせることが好きだったんです」。えまおさんは宝塚音楽学校の第3次試験でも、得意だった田原俊彦さんのものまねを披露。華やかな世界に憧れる少女というよりも、ひょうきん者だったという当時のえまおさんの本領発揮だ。「何か人と違うことをしなければと思って。審査員の先生方はみんな、そこで成績を書き換えたらしく、3番目の成績で入学できました。度胸を買われたのかもしれませんね」
宝塚音楽学校は「軍隊のように厳しかった」
えまおさんが入学した頃の宝塚音楽学校は、「カラスは赤」と言われたら「はい、赤です!」と言わなければいけないくらい、先輩には絶対服従。とにかく軍隊のように厳しく、独特のルールもたくさんあった。髪型も、予科生(1年生)の娘役が固い三つ編み、男役はショートヘア、そしてどちらもピンで前髪を留め、おでこを全開にする、と決まっていてた。「合格発表の時に、(同期の)天海祐希とふたりで髪を下ろして行ったんですよ。私はカチューシャで。それで『あの子たち生意気ね』となって。おかけで講堂掃除の担当にされてしまいました」
寮生活も同様に過酷な日々。予科生の入浴は午後7時から8時半までと決められていたが、8時半から本科生(2年生)が入るまでに髪の毛1本、水はねひとつ残さず掃除をするため、入浴できるのは実質8時まで。レッスン後に上級生が1人でも学校に残っていると帰ることができず、1週間入浴できないこともしばしば。「夏は手洗い場で頭を洗ったりもしました。ある時、シャンプー中に『上級生が来た!』となって、バレないように慌ててトイレに隠れたんです。シャンプーが目に入るのを堪えながら『どうか呼ばれませんように』って必死で祈りました(笑)」
自身も厳しい先輩だったのだろうか。「正直言うと、私はあんまりできなかったんです」と、はにかむような顔を見せるえまおさん。「廊下に並んで1日の報告をしている下級生に、いたずらで変顔を見せて笑わせていたんです。それで同期に『あなたのせいで本科生の威厳が保てないじゃない!』ってシメられちゃって。でも、『なんで私が怒られなきゃいけないのよ』なんて怒り返してましたね」
家族に支えられたトップスターへの道
1カ月半の通常公演期間中、入団1年目から7年目の若手のみで、1回だけ行われる新人公演。本公演と同じ作品を、同じ舞台や衣装、オーケストラで上演する。新人公演での主演は、トップスターへの登竜門だ。えまおさんも、主演の経験を持つ。「私の時は本役さん(本公演で同役を演じる役者)がすごく細い人だったんです! そんな時に限って衣装が高田賢三先生デザインの特注品で替えが利かず、必死でダイエットしました」。体型維持のため、食べずに舞台に立つ間も、何でもない顔をして乗り切った。「具合が悪いとわかると、自己管理がなっていないと怒られてしまうので」と、当時の苦労を語る。本役がざっくばらんな先輩だったので救われたとも。「衣装、中からプレスしてくれてありがとな!なんて、冗談を言って笑い飛ばしてくれました」
そして、2002年には雪組トップスターに就任。「これでやっと親孝行ができたと思いました。宝塚が大好きな家族ですが、よく知っているからこそ、特に母は厳しいことを言って私を鼓舞してくれました」。新人公演で2番手を務めたえまおさんが、演出家の意向で役のイメージのために3番手の配役となった時も、「怠けているならやめれば」と、母は観に来てくれなかった。「あの時、きついことを言われたからこそ、何くそ!って負けん気が出て頑張れました。優しくされていたら、ダメになっていたと思います」。父や兄からの手紙、姉からのサポートも励みに。誰よりも、えまおさんを宝塚スターにしたかった姉は、体調が良くない母に代わり、身の回りの世話をしてくれたこともあったと言う。
退団後は「歌で人の心を救う」
宝塚を退団して、最も大変だったのは「女になること」だ。「ホストよりも宝塚の男役のほうが、ずっと男らしいはず!」と息巻くえまおさんは、ついつい足を広げて座ってしまい、慌てて座り直すこともしょっちゅうだ。男性の役者からリフトされることも慣れず、「いやいや、私がしますよ!みたいになっちゃうんです」と笑う。
宝塚では常に仕事が保証され、毎月舞台に立っていた。しかし、事務所に入らず、フリーランスとなった今は、お金のやり取りを含め全てを自分で行い、自ら発信してチャンスをつかむ必要がある。「宝塚時代よりも、役者としてずっと厳しい世界に身を置いています」と、苦労をにじませた。今後の目標は「歌で人の心を救う」こと。すでに刑務所慰問など、ボランティア活動にも積極的だ。「今回も、ファンドレイジング・イベントでシアトルに来ることができて、本当にうれしく思っています。もっと私のことを知ってもらい、いろんな方を笑顔にしたいです」と、えまおさん。
最後にシアトルの子どもたちへのメッセージを聞いた。「何かに合格することは単なる出発点。毎年、宝塚の合格発表を見ていて、合格したところで満足してる人が多いように感じます。でも、それはゴールではなくスタート。満足していたら伸びないんです。そこからさらなる目標に向かって、頑張って欲しいですね」