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浦島太郎の思い出話

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浦島太郎の思い出話
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横浜からシアトルに移り住んで15年目の2002年秋、「このチャンスを逃したら当分の間、故郷には帰れない」と思って里帰り切符を購入。叔父に早速連絡すると、成田空港まで迎えに来てくれると言う。「私、日本語を忘れたわけじゃないから大丈夫よ」。説得する叔父の言葉を振り切り、東京駅までリムジンバスで行き、そこで叔父と会うことに落ち着いた。しかし、成田に着き、叔父との連絡に電話を探すのだが、公衆電話が少ないのにあ然とした。日本での携帯電話の普及率は、アメリカのそれよりも高かったのか? 数少ない電話機は小学生のグループに占領され、長いこと待ってやっと連絡できた。東京駅で叔父と感激の再会を果たし、電車の切符売り場へ。私の記憶にある切符売り場は消え、壁一面の路線図の下には自動販売機が整然と並んでいる。そして無人の自動改札をみんな忙しそうに通過していく。車を持たない叔父がなぜ、私を迎えに成田まで来てくれようとしたのか、その理由がやっとわかった。あの巨大路線図に載る膨大な数の駅の中から、叔父の家に行くための駅を探すのに、どのくらい時間がかかるだろうかと、気の遠くなる思いで見上げていると、「だから、俺が言っただろう」と、さっと切符を買い、自動改札機に入れてくれた。

もっと驚いたのは、私の生まれ育った横浜である。中学・高校に通うのに毎日利用していた桜木町駅は、大きな駅ビルになっていた。駅前にあった運河のような川が消え失せ、ホテルやショッピングセンターが林立し、巨大なアミューズメントパークが出現していたのである。親友との夕食の席で、「あなたは浦島太郎さんね」と言われてしまった。懐かしい元町を歩いていても、元町ってこんなに狭くて小さかったのかしらと感じる。15年前は自分もこの狭い車道をドライブしていたことが信じられない。大きな駅の中を歩くたびに人の波に押しつぶされるような気がする。

アメリカでの15年間の生活は、私なりにいろいろな苦労と変化はあったが、環境の変化はこれほど激しくなかった。私は日本人であるのに半分はアメリカ人の感覚になってしまったのだろうか? 激しい変化を遂げる日本と比べて、ここアメリカはまだゆったりとしているように思う。私はこの広い国に住み着いて以来、いろいろな面でアメリカ式にスポイルされてしまい、もう日本で生活することなど不可能になってしまったようだ。まさに浦島太郎の心境である。

(M.P/ワシントン州バンクーバー)

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