晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して Vol.6
日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。
第6回 服部良一
今からちょうど28年前の1月の終わり、日本のポピュラー音楽史において最も重要な作曲家のひとり、服部良一が亡くなりました。 85歳でした。 彼が世に送り出した名曲は、「別れのブルース」「蘇州夜曲」「東京ブギウギ」「青い山脈」など、挙げればキリがありません。
1907年に大阪の下町に生まれた服部は、昼に働き夜は商業高校へと通いました。ちょうどその頃、大阪市の千日前にあった大きなウナギ屋の出雲屋が少年音楽隊を結成するという話が持ち上がりました。ウナギ屋と音楽隊、なかなか想像がつきにくい組み合わせですが、その出雲屋に奉公に出ていた姉の勧めで、15歳の服部は音楽隊の採用試験に合格して入隊。彼の音楽家人生はそこからスタートしました。
その後、音楽の基礎をみっちりと学び、商業的作曲家として頭角を現し始め、1933年に26歳で上京。人形町のダンスホール、ユニオンのバンドにサクソフォン奏者として加わり、1936年に作曲家としてコロムビアレコードと専属契約を結びました。ジャズやブルースなど西洋音楽のリズムを取り入れた曲作りを得意とした服部の曲は、戦時下に敵性音楽と見なされ取り締まりを受けたこともありました。それでも、軍歌など軍部に協力する曲は一切書きませんでした。そんな服部は、戦中にコロムビアレコードの慰安団として中国を訪れています。当時、「大陸メロディー」と呼ばれる主に中国をテーマとした歌謡曲のジャンルが流行しましたが、その代表作と言われる「蘇州夜曲」は服部が上海滞在中にインスピレーションを得て作曲しました。自分の葬儀にはこの曲をかけて欲しいと言い残していたと言われるほど気に入っていたようです。なるほど、服部の魅力は、日本に限定されないアジアのムードと西洋音楽のリズムのほど良いミックス感と言えるかもしれません。
服部作品は時代を経ても愛され、歌い継がれています。1974年に細野晴臣がプロデュースし、雪村いづみが歌った服部作品のアルバム、その名も「スーパー・ジェネレイション」はとてもおすすめです。