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漁師の歌〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して Vol.18

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第18回 漁師の歌

皆さんはどんなお正月を過ごしましたか? 私は、元旦にちょっと変わった初詣へ行きました。アメリカに住むようになってからも、簡単ではありますが、おせちを作って新年をお祝いし、初詣も欠かさず現地の神社かお寺に出向いていました。昨年に続き、今年も神社やお寺に出かけるのは控えたほうが良さそうだったので、「それなら日本に縁のある場所へ」と思い立ち、ロサンゼルス市サンペドロのターミナル・アイランドにある日系人漁村跡地を訪れました。

ターミナル・アイランドはロングビーチ近くにある人工港で、現在は刑務所があるほかは、ほぼ産業地帯となっています。しかし、第二次世界大戦以前は約3,000人の日系人が暮らし、ほとんどが漁師か港の缶詰工場などで働く人たちとその家族でした。当時はにぎやかなコミュニティーを築いていましたが、開戦後に日系人は収容所へ送られることに。日系人の住居や工場、学校などは跡形もなく撤去されてしまいました。

現在のターミナル・アイランドには、その歴史を伝えるために2002年に建てられた記念碑があります。「大漁」の文字が掲げられた小さめの鳥居のレプリカと、日系人漁師2人の銅像、歴史をつづった壁などで構成されています。その壁には、こんな和歌もありました。

沖は黒潮 魚もおどる 父母の辛苦を偲びつつ 永遠に称えん いにしえの里

調べてみると、ターミナル・アイランドの日系人コミュニティーを懐かしむ人たちを中心に「ターミナル・アイランダー・クラブ」という団体が1971年に結成され、その会長を務めた方が作った和歌とのこと。日本からはるばるアメリカにやって来て、やっとの思いで築き上げた自分たちの居場所がなくなってしまった。そんな日系人たちの苦労に思いをめぐらせ、なかなか気軽に帰れない日本をいっそう恋しく思ったのでした。

港、漁師、故郷、いずれも演歌の重要なテーマとも言えます。漁師と聞いて私が真っ先に思い浮かべるのは鳥羽一郎です。三重県出身の鳥羽一郎は、演歌といえば「北」という法則にのっとり、北の海を歌った曲も多いのですが、「男だったら後には引けぬ」と歌う「熊野灘」や「好きな女にゃ死ぬまで惚れろ」の「俺の答志島」など、出身地の紀州の海を歌った曲もあります。ちなみに私が好きな曲は「あ〜海よ あ〜波よ」とロック調に歌う、2002年に発売された「海よ 海よ」です。USEN(有線)には漁師をテーマにした演歌専門のチャンネルもあるそうで、海を舞台とした力仕事に歌が必要なのもうなずけます。

しかし、鳥羽一郎は1980年代のデビュー。港や漁師などの演歌のイメージが定着したのも1970年代です。戦前、ターミナル・アイランドの日系人漁師たちはどんな歌に心を寄せていたのでしょうか?

坂元 小夜
横浜生まれ東京育ち。大学院進学のために2015年に渡米。2020年よりロサンゼルス在住。南カリフォルニア大学大学院の博士課程にて日本の戦後ポピュラー文化を研究。歌謡曲と任侠映画をこよなく愛する。