人生における 批判と賛美のインパクト
日本人社会は伝統的に、人の失敗を批判し改めようとする。西洋人社会は逆に、人の長所や才能を見つけたらそれをほめ、伸ばそうとするようだ。過去に受けた批判や賛美は自分にどう影響したのか、「目立ちたがり屋」と言われる、わが人生を改めて振り返ってみた。
小学校に上がると、女性の担任教師に成績や性格をほめられた。先生は皆にそうしていたのだろうが、私にとっては新鮮な発見で、「自分は好かれている。このままでいいんだ。先生のお気に入りになって、もっと認められたい」と考えるように。それが後の人生の「ぼやっとした」目標になったのだと思う。しかし、努力が必要とは思わなかった。
たとえば音楽の授業でも、教師の指名で私ともうひとりの男の子が新しく習う曲のお手本(?)を歌い、特別扱いされた(と思った)ことで音楽が好きになり、良い成績をもらった。図画工作にしても、教師が私の絵にさっと手を加えると、郡展で金賞は逃すも特選に。先生に感謝しつつも、自分の才能(?)だとほくそ笑む。郡の朗読大会に学校代表で出た時は、漢字を読み違えたせいか2番の成績。自分の不甲斐なさを棚に上げ、「読み間違えなかったら次は1番」と、またもや自己能力を過大評価した。
それが、中学に上がると事態は急変。初めての男性の担任教師に「自信過剰。掃除など嫌なことはしたがらない。女の子によくいたずらする」と、自分では気付かずにいた「欠点」を指摘された。賛美に慣れていた私はショックを受け、「いい子」の自己評価が揺らいだ。 しかし、「このままでは1番になれない。努力しよう」と一念発起。全科目で計画を立て、毎晩のように猛勉強をした。オール5を達成するや「それ見ろ、やればできる」と、再び自信過剰が復活し、中学卒業まではオール5の快感に浸り続けたいと頑張ったが、高校に上がって授業内容が難しくなると成績は降下。オシャレや車など「遊び」にかまけるようになり、周囲から期待され ていた京大進学も自ずと遠のいた。
人から受けた批判より賛美を優先させ、他人と比べ ること(1 番になる、ならない)で自己評価してきた自 分。大人になって、尊敬すべき賢人たちから「人とは比 較しない。自分は自分の道を行く」と聞くと、「立派な 考えだが自分には無理」と聞き流していた。それが年 の功か、近頃は「人の批評にこだわらず、自分なりに理 にかなった生き方をしたほうが楽しい」と思えるよう になった。不出来や失敗を非難せず、他人の手柄は努 めてほめる。それも、怠けグセを正当化したいだけな のだろうか。1 度、誰かと意見交換したいものだ。