ある60代の女性は、右耳が徐々に聞こえにくくなっているということで、聴力検査にやってきた。子供たちはずいぶん前に独立して、つい最近、仕事も引退して、現在はご主人と犬との生活を送っている。人の話の内容が聞こえにくく、何度も聞き返したり、にぎやかな場所で話が聞き取れなかったり、ご主人からテレビの音が大きいと苦情を頻繁に言われているので、思い切って主治医にそのことを伝えた。主治医は、右耳に異常は見られないが、念のために正式な聴力検査を受けることを勧めた。
耳に関連する症状は、右耳が聞こえづらいこと以外は何もないようだった。右耳を診ても異常は認められず、鼓膜検査をすることにした。鼓膜は正常範囲で動いているようだったが、右鼓膜の裏にある筋肉がまったく反応していなことが分かった。鼓膜裏の筋肉は音が大きくなるにつれて活発に動き、異常に大きい音が突然出たときに、できる限り内側にそれを送らないというストッパーの役割を果たす。この機能のおかげで、耳の一番奥の内耳が守られている。彼女の右耳は、この機能がまったくないという結果が出た。左耳を検査したところ、鼓膜もその裏の筋肉も普通に機能していた。再度右耳を検査したが、結果は同じだった。通常の聴力検査をしたところ、その結果も右耳の鼓膜裏の異常、つまり中耳に問題ありと出た。
彼女は約20年前に多発性硬化症(英語でMultiple sclerosis、通称 MS)と診断され、長年いくつもの薬を常用して症状を抑えてきた。この病気は日本では指定難病となっていて、脳や脊髄、視神経などに異変が起こり、多種多様な神経症状が再発したり一時的にましになったりを繰り返すことで知られている。MS 患者は常に「再発するのではないか、別な症状がでるのではないか」という不安に駆られている。そのような状態だからこそ、徐々におかしくなっている聴力について、検査をうやむやに先延ばしにしていることが不安で仕方なかったようだ。検査結果を説明して、耳鼻科医で中耳の精密検査と治療をすることを勧めた。
多くの人は、聞きづらいと自覚症状があっても、片耳が正常だと分かると、今のままの生活に支障がないというように思い込もうとして、とりあえずそのまま様子を見ようとする。しかし彼女の場合は、耳鼻科医への紹介をすぐに希望した。今後への期待ではなく、不安を少しでもなくそうとするかのようだった。紹介の手続きを終えて部屋を出る際に、「聴力の違和感の原因が明らかになり、嬉しくて安心した」と彼女は言った。聴力が正常ではないことを知った上で「嬉しい」という言葉を使ったことが、他の方と対照的だったので強く印象に残った。
[耳にいい話]