90歳の女性の患者さんが、耳垢を取り除くために初めてクリニックを訪れたのは、ちょうど2年前のことだった。娘さんに付き添われて歩行器を押しながら、無表情のぼおっとした様子で入ってきた。補聴器をつけているにもかかわらず、精一杯声を張り上げて質問をしてもなかなか理解してもらえず、娘さんが大声で同じ質問をして回答を得る、というほど重度の難聴だった。認知症の兆候があるのではと思われ、娘さんからも「ボケがあるようです」と告げられていた。
耳垢を取り除いても状況は変わらず、聴力検査を行ってオフィス内で補聴器を試すことになった。その時は耳穴式の補聴器を使用していたが、耳かけ式の補聴器を試してもらうことになった。耳穴式は耳型を基に製作される補聴器で、耳かけ式は補聴器の大半が耳の後ろにあり、拡大された音がチューブなどを通して耳の穴に送られるものだ。
彼女の両耳の穴は先天的に小さく、内部の耳道は上向きに傾いていて、外からは鼓膜が見えない構造になっていた。以前、耳型の採取に失敗した経験を持ち、耳型を取ることはしたくないと告げられた。片方は数年前に手術を行ったため平均の大きさになっていたが、耳の入口から鼓膜までの耳道の傾きはまだあった。どちらの耳も補聴器の先が固定しにくく、試行錯誤の末、装着を完了した。
補聴器をオンにすると彼女の顔色がいきいきした。娘さんを交えての会話がはずみ、「ずいぶん長い間こんな会話ができていなかった」と言って娘さんが感動で泣き出した。その補聴器を一週間ほど試してもらうことになった。娘さんは携帯で3人の姉妹に、「今試している補聴器で、お母さんと普通に会話ができて、なおかつお母さんはボケていない!」という内容のメールを興奮した様子で送っていた。それからは毎日のように、4人姉妹が交互に、お母さんを夕食に連れ出しているそうだ。
その日、彼女は、微笑みながら、足取り軽く部屋を出て行った。あれから2年。試用した補聴器を気に入った彼女は、補聴器を常に装着できるよう片方の耳道も手術した。今年に入ってから非常に興味深い発見がいくつかあった。最初に手術した耳道が広がり、傾斜も下がってきて、鼓膜が満月のようによく見えるようになったのだ。おかげで、補聴器の装着が自分でできるようになった。後に手術した方も傾斜が少し下がったようで、鼓膜が一部見えるようにまでなってきた。90歳でも体はまだ成長するのだなと感心した。もう一つの発見は、彼女が話している最中に、誤って補聴器を遠隔操作で一時停止してしまった時に起こった。彼女の話し方が舌足らずになり、聞き取れなくなってしまったのだ。ところが補聴器がオンになるやいなや何事もなかったかのように、彼女の話は明瞭簡潔になった。自分の声が聞こえると聞こえないでは、話し方にもこれほどの差が出るのかと大変驚いた。
現在、彼女は来るたびに、コー ヒーをブラックで飲み、政治の話、フットボールの話、誰それさんのパーティーの話をおもしろおかしくしてくれる。彼女の本来の姿を知ることができて、この仕事をしていて良かったなとつくづく思う。
[耳にいい話]