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ビル・タシマさん〜日系コミュニティー・ボランティア

シアトルの日系・アジア系アメリカ人のコミュニティーで数多くの非営利団体に関わり、ボランティアとして受賞経験も持つビル・タシマさん。LGBTQなどの性的マイノリティー当事者として、悩みながらもここまで来たと話します。家族や友人から愛と支援を受け、アイデンティティーの獲得、そして受容へと至った自身の半生を振り返ります。

取材・原文:エレイン・イコマ・コウ
翻訳:宮川未葉
写真:『北米報知』より転載

※本記事は『北米報知』2021年5月28日号6月11日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ビル・タシマ■シアトルでコミュニティー・ボランティアとして活動。関わってきた団体は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)ワシントン州日本文化会館(JCCCW)敬老ノースウェスト、デンショウ(Densho)、鶴の折り紙で結束を(Tsuru for Solidarity)、日系コミュニティーネットワーク(NCN)、おかえり(Okaeri)、あやめ会など多岐にわたる。2015年に『ノースウエスト・アジアン・ウィークリー』紙のトップ・テン・コミュニティー貢献者賞を受賞。2017年にJACL最優秀殊勲賞を受賞。

性意識の目覚め

ビル・タシマさんは、日系アメリカ人市民同盟(JACL)を始め、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)、敬老ノースウェストなど、数え切れないほどの非営利団体で活動してきた。「人と会って、いろいろなアクティビティーのお手伝いをするのが好きなんです。コミュニティーでのボランティア活動は親譲り。そういう家系なんです」と微笑む。

1983年に撮影された両親兄と妹その家族と並ぶ写真左端がビルさん

ビルさんはオハイオ州クリーブランド育ち。父母は共に戦時中の日系人強制収容を経験し、移転先となったクリーブランドで出会った。父親はJACLクリーブランド支部の初期会長。親からコミュニティーに貢献する伝統を受け継ぎ、ビルさんは1964年にジュニアJACLで活動するようになった。

オハイオ州の大学に進学すると、政治学を専攻。3年次はドイツに留学し、ハイデルベルクで過ごした。大学卒業後は、地元の別の大学で院生となったが中退。雑多な仕事をして、バーテンダーを3年間続けた後、70年代後半にクリーブランドの年金事務所で働き始めた。3年後、異動願いを出し、1981年にシアトルへ移る。「シアトルに引っ越してからはご多分に漏れず、ハイキング、キャンピング、サイクリングなど、アウトドア・ライフにのめり込みました」

一見、普通に思えるかもしれないビルさんの半生。「ひとつ違うのは、育ってきた過程で自分が同性愛者だと気付いたこと。ひと晩でわかったわけではありません。もともと男の子とのつながりが強かったけれど、女の子と遊ぶのも楽しかった」

70年代半ばクリーブランドの日本食レストランサムライでバーテンダーをしていた頃左端手前に写る日系3世の同僚キャロルヤツワイブルさん左とウェインイケダさんは生涯の友に

ビルさんは、男の子に対する自分の感情は一過性のものであり、そのうち状況は変わるだろうと考えるようになった。「でも、変わりませんでした。とはいえ、女の子と付き合うことはあり、いずれ結婚して“普通”の生活を送るんだと思っていました」

当時、同性愛者であることを公言するという選択肢は存在しないも同然だった。「家で同性愛者の話題が出たことは1度もありませんでした。家庭の外で耳にする同性愛者についての話は否定的なものばかりで、映画などでは同性愛者が極端になよなよした人物として描かれていました。肯定的に描かれていても、同性愛者であることを隠して生きていて、殺されるか自殺するかのどちらかでした」。同性愛者は社会的に追放されていた時代だった。

シアトルのゲイ・コミュニティーへ

ビルさんは、同性愛者であることを必死に隠そうとした。「接触を控えれば同性愛者ということにはならないと思いました。もし知られてしまったら、自分も映画のようになってしまうという恐怖に襲われ、絶対に誰にもさとられないようにしようと心に決めました」

2013年友人たちに見守られながらクリスさんと敬老ガーデンにて挙式介添人は息子のコルビーさんが務めた

大人になると、大学や職場では「クローゼット」(自身のセクシャリティーやジェンダーを公表しないこと)、夜は「アウト」(クローゼットとは逆に本当の自分を表に出すこと)の二重生活を送ることに。ビルさんの悩みは深かった。「将来に希望を持てなくなることもありました。表向きは明るく装っていても、実は動揺し、葛藤を抱えていたと今になってわかります。若者がよくやるように、アルコールとドラッグで現実逃避を繰り返す日々を送っていました」

ビルさんは一念発起して、クリーブランドを離れ、シアトルで自分探しをすることに決めた。そして、クリーブランドの友人たちに、同性愛者であることをカミングアウトした。「みんな、信じられないくらい応援してくれました。この親友たちとは今でも交流があります」。しかし、家族には秘密を打ち明けていなかった。「本当のことを言わずに別れるのは嫌だったのですが、まだ言う準備ができていなかったんです」

2019年のクリスマスにクリスさんコルビーさんと共に

シアトルは同性愛者に対してよりオープンで、別世界だった。「シアトルに来て、初めてサングラスを取り、日光を浴びたように感じました。80年代のキャピトルヒルはゲイのメッカ。キャピトルヒルの街を歩くと、自分は歓迎されていると実感できました」。ゲイ・パレードを見ては、さまざまな立場の人々がありのままの自分に誇りを持って生きていることに感銘を受け、ゲイが集まるディスコでは、思う存分踊って自分らしくいられる解放感を味わった。しかし、職場ではまだ、ほとんどの同僚に隠したまま。シアトルでも二重生活は続いていた。「私の片方の人生は自由になりましたが、月曜日に仕事に戻ると、週末のゲイ・コミュニティーでの出来事はなかったものとして振る舞っていました」

愛する両親、パートナーの死

80年代のシアトルでビルさんがゲイ・コミュニティーでの生活を楽しみ始めた頃、世界では新しい病気、エイズ(AIDS)が表面化してきていた。最初は「ゲイのがん」と呼ばれることもあった謎の病のうわさはゲイ・コミュニティーを恐怖に陥れた。

今は亡きルーさんと部分日食を見に訪れたハワイにてビルさんにとって特別な思い出となっている

1984年、ビルさんは最初のパートナーであるルーさんに出会う。やがてグリーンレイクに家を購入し、一緒に住むようになった。同時期、母親の他界、父親の病気の進行も重なった。父親をシアトルの家に呼び寄せ、それまで兄や妹がしていた介護を代わりに引き受けることにしたビルさん。それでも、ビルさんの家族は、ビルさんとルーさんが恋人同士であることに気付かなかったと言う。

ビルさんは、仕事と父親の介護に明け暮れる毎日だった。病状の悪化した父親がシアトル敬老の介護施設に入ってからも見舞いを欠かさず、透析治療や診察にも付き添ったが、1989年に亡くなった。ルーさんが体調を崩したのは、その翌年のことだ。抗生物質その他の薬を数週間服用したが回復せず、その病気がエイズだということが発覚した。この知らせはビルさんに衝撃を与えた。

現在、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染の段階での治療が可能だが、当時は大きな効果のある治療法はなく、ほとんどの感染者はエイズ発症を避けられなかった。日和見感染症に対する薬は副作用が強く、それを軽減するためにさらに多くの投薬が必要になった。「でも、いちばんつらかったのは偏見でした。そのため、ルーは私たちの家族や友人にエイズであることを知られたくないと思っていたし、私たちがカミングアウトすることも望んでいませんでした」

さまざまな治療を試すも、ルーさんの病状は悪化していくばかりだった。ルーさんは、病院で死にたくないと言う。ビルさんはルーさんを家に連れ帰った。「彼は好きな音楽を聴きながら、リクライニングチェアで寝ることができました。50歳の誕生日の直前、安らかに永遠の眠りにつきました」

ビルさんはついに家族にカミングアウトし、事情を説明した。家族の反応は意外なものだった。「兄と妹、その家族も、信じられないほど協力的でした。アイルランドで暮らす兄は渡米して葬式の準備を手伝いたいとまで言ってくれて。妹と私は仲が良かったので、力になってくれることはわかっていたのですが、私がゲイだと知らなかったのには驚きました。みんなの愛情とサポートに、私は感動しきりでした」。ビルさんは、同僚や友人にも打ち明けた。「優しい言葉をかけてくれましたし、パートナーが亡くなったこと、私がひとりでそれに耐えなければならなかったことを気の毒がってもいました」

自分の経験を生かしてLGBTQの人々を支えたい

ルーさんが亡くなり、何年も人付き合いを避けていたビルさんだったが、50代を迎え、再び人と会おうという気持ちになれた。そんな頃、理想の伴侶に出会った。現在の夫、クリス・ベントレーさんだ。

トランプ前大統領の就任日となった2017年1月20日ビルさんはボランティアとしてシアトルセンターで開催された大規模なワークショップで移民の市民権獲得を支援写真はJACLシアトル支部会員のツキノムラヘンリーさんセオビッケルさんと

「彼はスポーツマンで、ダウンヒル・マウンテンバイクの全国チャンピオンです。何よりうれしいのは、私を毎日笑わせてくれること。結婚した日は、それまでの私の人生で最も幸せな日でした」。ふたりが出会った時、クリスさんの息子は8歳。「私は一夜にして熱心な“サッカー・マム”になり、スポーツの練習や試合の付き添いはもちろん、コンサートやイベント、先生との面談にも行きました。このような経験ができるとは思ってもみませんでした」と、ビルさんは話す。「愛するクリス、息子のコルビーと一緒になれて、おとぎ話のよう。私たちの生活はごく平凡なものです。ほかの家庭と何ら変わりはありません」

ビルさんは、LGBTQなどの性的マイノリティーに対する差別を撤廃するため、積極的に活動を続けている。2003年、ラスベガスで開催されたJACL全国大会にて、同性愛者を排除するというボーイスカウトの決定に抗議するかどうかについて議論されたことがあった。ビルさんは、シアトル支部会員のアーリーン・オキさんから、抗議する決議に賛成のスピーチをして欲しいと頼まれた。そのスピーチではこう述べた。

2011年東日本大震災の被災地支援のためボランティアで募金活動を手伝うビルさん

「10代はつらいものです。自分ではどうにもできないことで判断され、決め付けられ、中傷されるのはどういう気持ちかは、皆さんもよくわかるでしょう。そんなティーンエイジャーが、それまで情熱を傾けていた集団から追い出されることになれば、間違ったメッセージを伝えることになる」

さらに、自分がゲイであること、そしてスカウト活動を通して得た素晴らしい経験と友人たちについて語った。決議は通過した。ビルさんが席に戻った時、アーリーンさんは泣いていた。「彼女は私がゲイであることを知っていましたが、『カミングアウトをして欲しいと思っていたわけではなかった』と言いました」。ビルさんは笑って、そんなアーリーンさんに「気にしないで。1対1で話す必要がなくなって、かえって良かった」と声をかけたそうだ。

2012年には、JACLシアトル支部でワシントン州の結婚平等キャンペーンに参加した。州議会は以前に同性婚を可決していたが、保守派の抵抗があり、投票にかけられることになったのだ。シアトル支部は結婚の自由を支持してきた長い歴史を持つ。このキャンペーンで、シアトル支部は地元紙に支持広告を掲載。ビルさんら会員は『シアトル・タイムズ』紙への寄稿も行った。投票では見事勝利し、可決へ。その祝賀会でも再び、ビルさんはスピーチを求められた。

「この勝利に抱く思いは、1952年にカリフォルニア州で排日土地法(外国人土地法)が廃止された時に1世が抱いた気持ち、そして1988年に市民自由の法の成立で、日系人強制収容への謝罪と補償が認められた時に2世が抱いた気持ちと同じだと述べました。結婚する権利を得て、ようやく完全なアメリカ市民になれたように感じたのです」

2016年には藤崎一郎元駐米大使手前左を迎えて総領事公邸で開かれたプライベートディナーに招待された

ビルさんは、「おかえり」という団体の活動にも携わる。これは日系・アジア太平洋諸島系LGBTQ+の若者とその家族や友人のためのサポート・グループで、トランスジェンダーの息子を持つマーシャ・アイズミさんによって設立された。「『おかえり』という名前には、LGBTQ+の全ての若者に『あなたは歓迎されている』というメッセージが伝わるようにとの思いが込められています」

ビルさんは自らの経験から、LGBTQ+の子どもや孫がいる家族、そして自身がLGBTQ+という人々への呼びかけを止めない。「当事者である私は、ほかの何百万人ものLGBTQ+の人々と共通する経験を持ちます。人と違っていても大丈夫、決してひとりぼっちじゃないということを知って欲しい。私が経験したような苦痛を誰にも味わせたくありません。あなたたちは愛されているし、気にかけてくれる人がいる。私たちのようなサポート・グループの支援も受けられるのです」


※LGBTQは性的マイノリティーとされるレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア(またはクエスチョニング)の各単語の頭文字を組み合わせたもの。多様なジェンダー・アイデンティティー(性自認)を包括するため、LGBTQの最後に「+」を加えることもある。