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行方 令さん/パシフィック・リム疾病予防センター創立者

パシフィック・リム疾病予防センターを創立し、27年間にわたってシアトルに住む日系人、日本人の健康調査に尽力した行方令なめかたつかさ さん。研究者を志すまでの経緯含め、リタイア後の現在に至る道のりを振り返ります。

取材・文:本田絢乃 写真:本人提供

行方 令■大阪生まれの新潟育ち。1966年に新潟大学教育学部を卒業後、東京大学大学院健康教育学科で、中高生の双生児集団を対象に身体発育と遺伝・環境要因を研究。1971年からイリノイ大学大学院に留学し、1974年に博士号(Ph.D.)を取得。1975年より同大学公衆衛生学部の助教授として環境疫学研究を担当。1980年にシカゴからシアトルへ移り、バテル記念研究所に勤務、1983年には米国疫学学術院より上席研究フェローとして認定される。1985年、東京大学医学部保健学科疫学教室にて保健学博士を取得。1989年に財団法人パシフィック・リム疾病予防センターを創立、ディレクターに就任し、ワシントン大学公衆衛生学部にて臨床准教授も務める。2016年に引退。
大阪大空襲を経験し、一家で新潟へ
1943年、第二次世界大戦中に5人姉弟の次男として大阪に生まれた行方さん。それなりに裕福な生活を送っていたが、2歳の時に起きた1945年8月の大阪大空襲で父親を亡くし、母親の郷里である新潟県南魚沼郡(現・南魚沼市)薮神やぶかみ 村へ一家で疎開することに。戦後もそのまま村での厳しい暮らしが続き、当時は落ち込むことも多かったと行方さんは話す。それが、恩師との出会いによって救われた。
小学5年生の時遠足で新潟県柏崎市の海へ担任教諭だった小川 玄さんの真下で学生帽を被るのが行方さん
「小学5年時の担任、小川 けん 先生には精神的にすいぶんと助けてもらいました。後に教師を目指したのも、その影響があったかもしれません。先生方に勇気付けられるうち、前向きな気持ちを取り戻し、勉強も少しずつ頑張るようになりました」
中学3年生になると高校進学を決意。夜7時から11時まで友人ふたりと共に猛勉強をした。100人いた同級生の中で高校に進んだのは、たった5人だった。「農業中心の村で、高校を出る者はほんのわずか。私の場合、先に高校を卒業し新潟大学に進んだ姉の影響も大きかったのだと思います」
2007年その恩師と再会を果たす右から行方さん妻の慶子さん小川さん
無事に県立小千谷おじや 高等学校へ入学したが、通学には家から最寄りの駅まで徒歩1時間、さらに鈍行列車で1時間と、片道2時間もかかった。「帰宅してから食事をするので、とても疲れて勉強するのがしんどかった記憶があります」。卒業後は、新潟大学教育学部へ進学し、中高の保健体育と数学の教師を目指した。そこから研究者の道へと行方さんを突き動かしたきっかけは、何だったのだろうか。
「村の子どもの健康をテーマにした大学の卒業論文が、研究者人生の出発点。私の暮らした村は新潟有数の豪雪地帯で、戦後の経済復興期の日本では、食卓に新鮮な野菜や肉・魚が上ることは雪が解けるまでほぼありません。村の子どもたちの体格や体力は、都会の子に比べて劣っているのではと、疑問を抱いたのです」
中学の3年間はバスケットボール部に所属しスポーツに熱中した11番が行方さん大会の決勝戦で延長3回の末にロングシュートを決め優勝したことは今も鮮明に覚えています
1年間、薮神中学校の全校生徒300人以上を対象にした調査資料と統計に向き合いながら研究に没頭した行方さんは、卒論を書き終えた時の充実感と満足感が忘れられなかった。指導教授に相談し、勧められた東京大学大学院の受験を決めたものの、試験日までは3カ月を切っていた。「過去に新潟大学からその研究室に入った者はひとりもいませんでした。定時制高校の講師アルバイトを終えたあと、翌朝4時頃まで必死で勉強する日々。運動で培った体力には自信がありましたが、布団に入ると寝坊してしまうので、畳の上で寝ていましたね(笑)」
イリノイでアメリカ生活をスタート
無事合格した東京大学大学院の研究室では、大型電子計算機を使う。当時、最先端だったプログラミング言語「Fortran IV」を習得することが、行方さんの最初のミッションだった。大型電子計算機を扱える人材はまだ少なく、この経験が後にアメリカで就職する際にも有利に働くことになる。
跳馬で槍跳びのデモンストレーション大学時代は勉学に加え体操部の活動と家庭教師のアルバイトで多忙な日々を過ごした
そして、転機は訪れた。1970年、イリノイ大学大学院から学生を募る連絡が担当教授の元に届いたのだ。就職か、研究室を移るか、岐路に立たされていた行方さんは迷わず立候補。留学にはTOEFLの基準点をクリアする必要があり、1年間は勉強に勉強を重ねた。ストイックで粘り強い性格がここでも発揮される。しかし、留学のめどが立って喜んだのも束の間、大変なことに気が付く。「貧乏学生なのに飛行機代のことを全く考えていなかったんです。運良く国際教育協力財団のチャーター機に無料で乗せてもらうことができ、難を逃れました」
リハビリテーションセンターのディレクター夫婦と一緒に写る妻の慶子さん右端

そして1971年、渡米。人生の新しいステージが始まった。最低限の生活費が支給され、授業料が免除される代わりに、学内で週 20 時間働くというのが条件。行方さんはリハビリテーション・センターでフィジカルセラピストの助手を務めることに。そこで出会ったのが、後に妻となる慶子さんだ。「家内は先天性の網膜症で目が見えず、学内のリハビリテーション・センターで盲人の新入生を助けるボランティアをしていました。1972年に全米の成績優秀な盲学生に与えられる特別賞授与式に参加するため、ホワイトハウスに招待されたこともありましたね。在学中に結婚し、博士論文の研究で IBM データカード数千枚をキーパンチするのを手伝ってもらうなど、とても助けられました」
後に日本学校保健学会から出版された卒業論文薮神中学校生徒の身体発達と身体発達遅滞児の事例この研究により薮神中学校に通う子どもたちは新潟市の都会に住む生徒に比べて体格が劣り発育速度も遅いことがわかった

イリノイ大学大学院で博士号(Ph.D.)を取得した後、同大学公衆衛生学部に研究助手として迎えられ、シカゴの大気汚染と呼吸器疾患の関連性を調べるプロジェクトに参加。市内の病院で毎日、ぜんそく、慢性気管支炎などの呼吸器疾患の患者数を調べ、大気汚染との関連を回帰分析していた。その1年後、助教授になった行方さんはかつての夢であった教鞭を執る夢をかなえる。当時、話題に上ることが多かった公害が及ぼす健康被害(四日市ぜんそく、イタイイタイ病、水俣病など)について講座を開講し、こんなことが二度と起きてはいけないという思いを受講生たちに託した。
シアトルの日系コミュニティーに貢献

シカゴの冬は寒い。よく風邪を引く幼い長女の健康が気がかりになっていた。順調にキャリアを積み重ねていた行方さんだったが、気候の温暖な土地での転職も視野に入れ始める。そんな折、シアトルのバテル記念研究所で研究科学者を募集する求人を見つけ、思わず飛び付いた。職を得て引っ越したのは、1980年のことだ。

渡米してすぐイリノイ大学キャンパスにて撮影

バテル記念研究所には 12年間在籍。1983年には、これまでの功績から米国疫学学術院より上席研究フェローとして疫学者の専門職認定を受けた。その翌年、カナダのバンクーバーで開かれた、日本における大気汚染による呼吸器疾患の発症と補償金の問題について取り上げた国際疫学学会のワークショップでは議長を務め、各国の研究者たちと意見交換を行った。その結果は、バテル・プレスから出版もされている。アメリカでは、研究費の一部から研究者の給料が賄われるため、自分の研究を政府や研究財団に提案して、資金を獲得しなければならないというプレッシャーが常に付きまとう。行方さんは、数々の学会やプロジェクトに参加しながら、アカデミアの世界の厳しさも肌で感じていたと明かす。

東京大学大学院時代に調査で訪れた神奈川県串川小学校前で左端が行方さん
同じく大学院時代に友人たちと東京から地元へ帰省した際の1枚後ろには南魚沼地方のシンボル八海山が左端が行方さん

そして1989年、在所中に自身で財団法人パシフィック・リム疾病予防センターを創立。「大きな研究所だと研究費から抜かれる管理費も莫大で、満足のいく研究が続けられないのではと心配が尽きませんでした。規模の小さい財団であれば、管理費も少なくて済みます。シアトルに住む日系人、日本人の健康調査に集中したいという希望もあり、バテル記念研究所の承諾と周囲の協力を得て財団を立ち上げることにしました」

この健康調査は、日本健康増進財団のような全国ネットワークによる健康診断をシアトルでも実現したいと考えたのが発端。日本を訪れた際、日本健康増進財団の鈴木賢二氏から全面的な協力を取り付けることに成功した。

バテル記念研究所で最初に取り組んだ研究のテーマは避妊のための精管切断バセクトミーにより虚血性心疾患リスクは高まるかというものサルを対象とした実験で動脈硬化の進行が認められたため米研究機関から依頼されたワシントン大学医学部との共同プロジェクトだったが人間には当てはまらず安全だと証明された

シアトルでの健診場所も、理事のひとり、ルビー・イノウエ医師のオフィス2階を改装して使用できることになった。シアトルの日系人、日本人の健診データと、日本健康増進財団の持つデータを比較することで、当地コミュニティーの環境と健康の関連性を調査した研究の成果は、『30年にわたる日系人と日本人の健康調査研究結果のまとめ』として公式サイト(www.seanikkeihlth.com)でPDFファイルを公開している。多くの縁がつながり、シアトルの日系コミュニティーに関する貴重な研究が形となったのは、行方さんの情熱とその人柄あってこそだろう。

1992年にバテル記念研究所を退所後は、センターのディレクターとしてこれらの研究活動にまい進する傍ら、ワシントン大学公衆衛生学部にて臨床准教授も務め、再び指導者として教壇に立った。そして2016年、年齢を理由に現役を退くことを決断。引退と共に、財団法人パシフィック・リム疾病予防センターは閉鎖した。

その後もシアトル広島県人会会長を務めるなど、精力的に活動を続ける行方さん。庭の手入れや夫婦での散歩を日課とし、3人の孫の子守をしながら忙しい生活を送る。「体力維持のため、ピックルボールも始めました。かなりの量の研究資料や書籍の処分が、これからの課題ですかね」

2019年11月東京上野の水月ホテル鴎外荘にて研究者生活の締めくくりとして関係者を招いた懇親会を開催感謝の意を表する
パシフィックリム疾病予防センター運営理事を務めたワシントン大学名誉教授の故フランクミヤモト氏写真左故ルビーイノウエ医師と
NVCホールで行われたパシフィックリム疾病予防センターのクロージングイベントでバテル記念研究所時代の元上司でありワシントン大学名誉教授のエドワードペリン夫妻と共に
妻の慶子さん長女の直美さん次女の真由美さんと4歳7歳8歳になる孫もでき子守をするのが何よりの楽しみ
行方さんの研究結果をまとめたDVDが名古屋大学医学部青木國雄名誉教授によって作られ日本全国の公衆衛生と疫学の研究者や学生に教材として無料で配布されている