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ワシントン州日本文化会館代表 カート・トキタさん

日本と日系人の文化や伝統を伝える集いの場として設立されたワシントン州日本文化会館(JCCCW)。代表を務めるカート・トキタさんに、JCCCWと自身の家族との関わりやJCCCWの使命に対する思い入れについて、話を聞きました。

※本記事は『北米報知』2月28日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

取材・原文:ブルース・ラトリッジ
翻訳:宮川未葉
写真:鎌田賢祐

カート・トキタ(Kurt Tokita)■タコマ生まれ。父親が空軍に所属していたため、テキサス、ワイオミング、ハワイ、台湾、フロリダと移り住み、その後ベルビューに戻って中学と高校に通う。ワシントン大学に進んだが、ロサンゼルスで大学編入・卒業を果たし、そこで16年間暮らした。2001年にレントンに移り、2003年にワシントン州日本文化会館(JCCCW)に関わるように。2011年には理事長に就任。長年IT分野で仕事をし、現在はアドバンスト・マイクロ・デバイス(AMD)社のシニアソフトウェアエンジニア。子どもは2人、アーロンとトリーがおり、共に20代。

過去を現在に結び付ける場に

シアトルにある非営利団体、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)には、歴史的な写真、アートの数々が壁や展示ケースに並ぶ。1階の中心にはロジャー・シモムラさん制作の大きな壁画もあり、3つのパネルに分かれ、日本人・日系人の1世、2世、3世にまつわるモチーフが描かれている。その時代ごとに使われていた炊飯器、米国における人種差別的な日本人描写など、さまざまな題材が見られる。また、廊下に展示されている美しい木彫りや貝殻を使った宝飾品の多くは、砂漠地帯のアイダホ州ミニドカに強制収容された日系人により作られたものだ。館内では地元の切り絵アーティスト、曽我部アキさんの作品も飾られている。

JCCCWの理事長を務めるカート・トキタさんの父親の写真も、館内の壁にかけられている。ミニドカで撮影された、10歳の頃の写真だ。「父とその兄弟たちはまだ幼く、収容所での体験は上の世代となる祖父たちとはだいぶ違うものでした。同じ建物内にたくさん子どもがいたので、楽しい思い出となったようです」と、カートさんは説明する。JCCCWは単なる博物館ではない。館内を歩くと、グループで太鼓の練習をしている音が聞こえてくる。1階の武道館道場もよく利用されているという。「道場には5、6団体が夜や週末に集まります」。館内には全米各地から寄付により集まった日本の手工芸品や古物などの販売所、宝石箱もある。JCCCWは、まるで過去を現在に結び付ける役割を担っているかのようだ。

JCCCWの歴史的な建物にはこれまでの日系人の歩みを物語るアート作品や工芸品が多数展示されている

豊かな歴史を持つJCCCWは、1902年に設立された北米最古の日本語学校の本拠地でもある。「週末には95人、平日には成人の生徒が150人ほど通います。中国への関心が高まる中で生徒の数が減るかと思いきや、今でも日本語への関心は高いようですね」と、カートさん。JCCCWの外には、カートさんの父親が子どもの頃、仲間と草野球を楽しんでいたという小さな空き地がある。「右利きなので、打った球が道に飛び出てしまいます。そこで、みんなスイッチヒッターになって球を左打ちしました。酔っぱらいが丘の上に座って観戦していたこともあったそうで、当時はそれがエンターテインメントだったんですね」

カートさんは2011年1月にJCCCWの指揮を執るようになった。すべきことはたくさんある。建物は古く、保存修復にはお金がかかる。毎春開催される「ともだち・ガーラ」というディナーショー兼オークションのイベントで集まる寄付は、JCCCWにとって大切な資金源だ。「寄付はいつでも歓迎します。クラスを取るなどどんな形でもいいので、ぜひ多くの方にご協力をお願いしたいです」

JCCCWとの不思議なつながり

カートさんはJCCCWの建物の中にいる時に自身の家族の過去が明らかになるという不思議な体験をしてきた。たとえば、ある日の会議中、カートさんの祖父母とその8人の子どもが第二次世界大戦終結直後、しばらく同じ建物内で暮らしていたことがあるとわかった。「JCCCWに関わるようになって初めて、ここで親族が暮らしていたことを聞きました。『それは初耳だ!』と、本当に驚きました」。祖父母たちは2階の1室に2年から2年半くらい住んでいたという。当時、JCCCWはハント・ホテルまたはハント・ホステルという名で宿泊所として機能していた。戦時下で強制収容された日系アメリカ人たちがシアトルに戻り、金銭的に立ち直れるようになるまで、ここに集まって狭い部屋で一緒に暮らしていたのだ。

今から2年ほど前には、カートさんの曽祖父母もJCCCWにつながりがあったことを知った。カートさんが父親と共にJCCCWで地元放送局のKCTSからインタビューを受けていた時、父親が不意に「この写真は、おまえのひいおじいさんのスズキだ」と告げたのだ。「何だって!? という感じで(笑)。曽祖父母がここにいたなんて思ってもみませんでした」。カートさんの曽祖父母は、終戦直後に裏の建物に住んでいたという。「それまで聞いたこともなかった。どうして誰も教えてくれなかったのでしょうね」

強制収容の歴史を象徴する母の腕に抱かれたナタリーハヤシダオングさんの有名な写真カートさんはJCCCWでナタリーさん本人との出会いを果たした

最近では、ナタリー・ハヤシダ・オングさんとの出会いもあった。ナタリーさんは、会館の壁にかかっている有名な歴史的写真に写る本人だ。その写真はベインブリッジ島で撮影されたもので、一張羅を着たナタリーさんの母親が、まだ赤ちゃんのナタリーさんを腕に抱き、強制収容所に送られるのを待っている瞬間を捉えたものだ。「当時を知る写真として重要で、かなり印象的な1枚です」とカートさん。ナタリーさんは、現在住んでいるヒューストン郊外から、たまたまJCCCWを訪れていた。話していくうちに、ふたりそれぞれの家族同士に多くのつながりがあることがわかった。「家族ぐるみで付き合いのあった友人だと判明し、その写真が今まで以上に大きな価値のあるものとなりました」と、カートさんは続ける。館内にいるとこのようなことがよく起こると話すカートさん自身が、JCCCWの歴史を語る生き証人のようだ。

カートさんとJCCCWとの運命的なめぐり合わせがかなってから、かれこれ10年以上が経つ。ロサンゼルスで大学を出て、そのままロサンゼルスのIT企業で働いていたが、2001年に同じ会社のシアトル事業所に移った。以前から建築に興味を持っていたカートさんは、建築プロジェクトに携わってみたいと考えていたところ、友人の影響で、2003年に設立されたJCCCWに関わるようになった。「最初は建築のプロセスに関心があったのですが、私の家族が実はここに住んでいたとわかり、突然、プロジェクトが個人的に思い入れのあるものになりました。いろいろ調べていくうちにたくさんの歴史が詰まっていることを知り、取り壊すのは良くないと考えを改め、新しい会館を建てるという当初の計画を取り止めました。父やその兄弟が今の事務室に住んでいたなんて、素晴らしい偶然だと思いませんか」

 

親族の歴史を記録として残したい

カートさんの祖母は、キャデラック・ホテルを経営し、実業家として成功していた。「祖母は腕のいいビジネスウーマンでした」。祖父は著名な画家だったが若くして亡くなり、祖母は8人の子どもを育てながら3軒のホテルを経営した。一時はアパート1棟も持っていたとカートさんは付け加える。子どもの頃はクイーンアンのコンドミニアムに住む祖母を2年おきくらいに訪ねていた。「子どもと遊んでくれるような人ではなかったので、行っても退屈でした。『かごの中におもちゃがあるよ』と言われて中を見ると、2、3歳児向けのおもちゃしか入っていないんです。ひと晩泊まるという決まりで、翌朝8時にシズおばさんが迎えに来て、4人の子どもがいるおばさんの家で、その週の残りの日を過ごすことになっていました」

日本とアメリカ日系人の歴史がさまざまなモチーフを通して表現されているロジャーシモムラさんによる壁画

カートさんは高校生の頃、祖母にいたずらをして叱られたことがある。祖母から夜の8時にかかってきた電話を受けたカートさんは、「今は朝8時か夜8時か」と聞かれ、ふざけて「朝だよ」と言ったのだ。それを聞いていた母親に、祖母が仕事に行ってしまっては大変と諭され、すぐに折り返したが電話に出ないので、カートさんは母に言われてレドモンドからノース・ビーコンヒルにある祖母の家まで車を走らせた。祖母はバス停にいたと言う。「祖母は80歳になってもシータックまで毎日花を売りに行き、松茸狩りやサケ釣りも大好きでした。あの時は本当に申し訳なかった……」

2011年、カートさんの祖父について書かれた『Signs of Home: The Paintings and Wartime Diary of Kamekichi Tokita』がユニバーシティー・オブ・ワシントン・プレスから出版された。カートさんの祖父は、日本が真珠湾を攻撃した日から日記をつけ始め、戦争が終わるまで書き続けることを誓った。同書は、当時の1世の希望と不安がつぶさにつづられている日記を紹介し、また1940年代の美術界におけるカートさんの祖父の絵画について、その位置付けを評している。「著者のバーバラ・ジョンズさんとは、家族ぐるみで仲良くなりました」と、カートさんは話す。

JCCCW前にてカートさんとナタリーさんを挟みナタリーさんの夫のアルオングさん左から2人目JCCCW日系文庫ボランティアの関根楢千代ならちよさん左端ブルーステラミさん右端が並ぶ

カートさんの父方には85人ほど、母方には135人ほど親族がいる。「お餅を作る時期になると、全米から親族が飛行機でやって来て、昔ながらのやり方で、実際に火を使ってお餅を作るんです。全部で150パウンド近くのお餅が入った大量の袋で居間がいっぱいになります。みんなが集まるといろいろな話に花が咲きます」。貴重な物語を古い世代がいなくなる前に記録し、歴史として残しておきたいとカートさんは考えた。そして、親族をインタビューし、映像として残す作業を今日まで続けている。母親は病気になって2015年に亡くなった。それまでにインタビューできなかったことが心残りだったそうだ。「チャンスを逃してしまったことで、このような物語を早く撮影して残さなければという危機感がつのりました」

歴史、工芸、写真、映像撮影、アートにずっと魅了されてきたカートさん。古いカメラをコレクションしているのも、その表れだ。最近では、ポートランドのアンティーク・ショップで、1台のカメラを買った。「取扱説明書に名前が書いてあり、その人がブレマートン周辺の島に住んでいたことがわかりました。その人の家族を探し、カメラを返して欲しいか聞いてみようと思っています」。そんな見ず知らずの人のことにまで心を配るカートさんだからこそ、運命的な出会いに恵まれ、JCCCWをここまで率いてくることができたのかもしれない。

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)

2003年に設立された非営利団体。日本・日系の歴史、伝統、文化の保存・振興・共有を目的としている。1902年に設立されたシアトル日本語学校の場所にあるJCCCWは日系コミュニティーの歴史に深く根差し、これからの世代のために遺産を保存することに取り組む。シアトル日本語学校、西北日系博物館、日本の物専門の再販店である宝石箱、日本語書籍を集めた図書館の日系文庫などの運営ほか、幅広い教育、文化、レクリエーション、社会事業を行う。現在、新型コロナウイルス感染拡大のため、一部のサービス(宝石箱のオンラインストアで購入した商品の受け取り、不要品の寄付など)を除いて一時閉館中(2020年9月末時点)。最新情報はウェブサイトにて。

JCCCW: Japanese Cultural & Community Center of Washington
1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144
☎206-568-7114
www.jcccw.org


ともだち・ガーラが初オンライン開催

シアトル日本語学校の子どもたちからのメッセージ

毎年開催されるJCCCWのファンドレイジング・イベント「ともだち・ガーラ」では、コミュニティーが一堂に会してJCCCWとそのプログラムを支援する。また、日本・日系の文化や伝統の振興に貢献した個人・団体の表彰も行われる。今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により、8月11日にYouTubeにてオンライン開催された。約40分という短い時間となったが、館内の新エレベーター設置についてほか、日系ホライズンのカルチャー教室が敬老ノースウェストから引き継がれてJCCCWで開催されることなど、各関係者から活動報告と共に支援への感謝が伝えられ、踊りのパフォーマンスも披露された。全容はJCCCW のYouTubeチャンネル(www.youtube.com/user/JCCCWA)にて視聴できる。

シアトルの日系コミュニティーを支えた三原源治氏による強制収容される心情を込めた一句を紹介する場面も