イーストサイドにて日本語環境での保育・幼児教育を提供する、すぎのこスクール(以下すぎのこ)。創設メンバーでもある鹿取しおん新園長に、日米を行き来した自身の生い立ちと、すぎのこのこれまで、そしてこれからについて語ってもらいました。
取材・文:加藤 瞳
写真:すぎのこスクール提供
鹿取しおん■父親の仕事の関係から家族と幼少期に渡米。高校1年までをシアトルとロサンゼルスで過ごした後、帰国子女として日本の高校に編入する。卒業後はシアトルに戻り、ベルビュー・コミュニティー・カレッジ(現ベルビュー・カレッジ)にて幼児教育を専攻。アメリカで幼児教育・保育者として約30年、インクルーシブ・クリエイティブ・カリキュラムを軸とした教育を推し進める。2020年、すぎのこ幼稚園・保育園園長に就任。現在、すぎのこスクール園長を務める。
1997年の開園以来、「よりそう保育」をモットーに日米の懸け橋となる教育を続ける。2021年にレドモンドの新園舎への移転を完了し、すぎのこ幼稚園・保育園から、すぎのこスクールに改称。さらに充実した環境でシアトル近郊の子育てファミリーをサポートする。
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日本人としてのアイデンティティーを育んだ子ども時代
生まれは北海道。高知、東京での幼少期を経て、8歳でシアトルに家族と移住したというしおんさん。どんな子ども時代を過ごしたのだろうか。「パスポートの署名の仕方だけ教わって、英語は全くわからないまま、いきなりスクールバスに乗せられて現地校に放り込まれたような感じでした」。それでも柔軟に適応していたほうだと振り返る。「姉や妹はそれこそ固まってしまって、学校では座りっ放し。私は兄と姉、妹に挟まれた真ん中だからか、もう少し要領が良かったのかもしれません。自分の容姿に近いアジア人の子を見つけて、とにかくその子について回っていました」。身振り手振りに始まり、しどろもどろの英語から、徐々に打ち解けられるように。「担任はミセス・ジョーダンという日系人の先生でしたが、日本語はあまり話せなくて、おはようございます、ありがとうくらい。日本語を話す『日本人』は本当に少ない時代でした」
そんな中でも、両親は子どもたちに日本人としてのアイデンティティーを持ち続けてほしいと強く望んでいた。家の中では全て日本語。学校の勉強についてとやかく言われることはなかったが、夏休みには日本語の読書感想文を父親に提出していた。「両親は日本人らしい思考やマナーに関してはとてもうるさかったんです。そんな両親に感謝しています」。しかし、ひどくショックなことも経験した。「日本に遊びに帰った時、税関で読めない漢字があって、職員の方に聞いたんです。そうしたら『日本人のくせにこんなのも読めないのか』ってすごく怒られて。私はパスポートも日本のものだし、見た目も日本人。見た目からは内面の文化的背景までわからないんだと気付いて、そこから自分のアイデンティティーについて考えるようになりましたね」
尊敬する恩師との出会い
両親の思いもあり、高校は神奈川県茅ヶ崎の帰国子女受け入れ校へ編入。卒業後にシアトルへ戻ると、コミュニティー・カレッジで教育学を学んだ。「幼少の頃からずっと、小学校の先生になりたかったんです」。若干の路線変更をしたのは、オープンしたばかりの日系保育園で働く姉から助っ人を頼まれてから。「ちょっと手伝ってと言われて行ったら、もう子どもたちがかわいくてかわいくて! 小学校の先生と違って、黒板に向かって教えるのではなく、子どもの目線に立って一緒に考えて、一緒に泣いたり笑ったり。体力的には疲れるけれど、すごく充実していて、いいなぁって思ったんです」
大学での恩師との出会いも後押しとなった。教授がいなければ、今の道に進んではいなかったかもしれないと顧みる。ネイティブ・アメリカンの出自というその教授は、「クリエイティブ・マインドを育む・差別をしない子どもたちを育てる」という教えを徹底していた。「衝撃的でした。最初の授業で『この中で何人が実の両親に育てられたか、手を挙げてみて』と教授が聞くと、30人くらいのうち6人しかいない。継父母、養父母、里親と、次第に手が挙がっていき、教授は『私たちは、そういうダイバーシティー(多様性)の社会で子どもたちを教育していく。両親がそろった家庭が必ずしも幸せとは限らないし、決めつけないことが必要』と。もう目からウロコでした」
近年では、文化的マイノリティーへの配慮から、「メリークリスマス」というフレーズの非使用が認知されつつある。しかし、その教授は30年前からすでに提唱していた。「たとえば、ネイティブ・アメリカンにとってのサンクスギビング(ヨーロッパ系入植者からの侵略と迫害の歴史の始まりの日と捉えられている)のように、ホリデーというのは、『一部の人にとっては自分たちの文化を失った日かもしれない。だから私たちは、ホリデーを敏感に捉えなければいけない』と強調していました。物事は、『これが正しい』という考え方だけでは測れないということを教えられました」
幼稚園立ち上げに携わる日々
大学卒業後の2年間は姉の勤める日系保育園で働いたが、結婚を機にアイダホ州への転居が決まっていた。転居までの猶予となる1年の間に、またしても運命的な出会いを引き寄せる。「たまたま日系新聞に、ベルビューの新幼稚園オープニング・スタッフ募集の広告を見かけて、立ち上げだけならお手伝いできると思い、電話してみたんです」。それは、すぎのこの前身となる園だった。初代園長とのデニーズでの面接は、今でもはっきりと覚えている。大学を出て間もないしおんさんは、自身の理想とする教育について、あふれる思いが止まらなかった。「『じゃあ、あなたが園長やる?』っておっしゃって(笑)。いやいや、自分は未熟だから、とにかく教授から学んだことを実践できる園作りのお手伝いをさせてください、と伝えました」。まさにゼロからのスタート。スタッフで毎日のように勉強会をして、どんな園にしたいかを話し合った。本当に何もない状態だったため、家にあった本箱にペンキを塗って子どもたちのロッカーにしたり、手描きの紙芝居を作ったり。おやつも手作りした。「本だけは園長先生になんとかお金を出してもらって、私が日本に一時帰国した際に買ってきました。そこからちょっとずつ教材を増やしていったんです」
その時に集まった4人の創設メンバーには、今では同志とも呼べるマルケヒー真知子前園長もいた。シアトルを離れてからも密に連絡を取り合い、日々起きる問題や悩みへの解決策を探った。アイダホでは、インクルーシブ・チャイルドケア・センター(子どもの年齢や国籍、障がいにかかわらず、さまざまな背景を持つ子どもを受け入れる保育施設)にフルタイムで勤務する傍ら、すぎのこのカリキュラムを作り、FAXで送るリモートワークを続けた。「シアトルへ戻ると決まった時には、すぐに真知子先生に連絡をしました。それで、私が帰ってくるならと午後クラスができ、今の形のすぎのこになったんです。真知子先生とは、離れていても常に熱く保育を語り合っていました。実の親と過ごした年数よりも長く一緒にいたと思います」
すぎのこで働きながら、自身も2児の母として奮闘した。その経験から保育園の新設を提案したのもしおんさんだ。「私自身、働くお母さんの大変さをわかっていて、それでも日本語教育を諦めて欲しくなかった。『働く親御さんを応援します』というのが、すぎのこ保育園のモットー。おむつも食事も一切気にしなくて良いし、シーツや毛布の洗濯は全て園で行います。持ち物は着替えくらい。それは、限りある親子の時間を有効に使ってほしいから。そうして始まり、15年になります」
マイナスをプラスに変える力を養うコロナ禍での保育
パンデミックさなかの2020年暮れ、突然の知らせに耳を疑う。「すぎのこ幼稚園の建物が売りに出されている」と知人から聞かされたのだ。その3カ月ほど前に園長職を急きょ引き継いだばかりだったしおんさんには、青天の霹靂(へきれい)だった。年明けから、クラスを持ちながらの慣れない園長職に加え、週末には物件探しで駆けずり回ることに。「どこを探してもないんです。しかも家賃が5倍にも値上がりしている」。そんな中、保育園の入居先までも売却が決まった。「結局、保育園の建物が先に、年内で出ていってほしいと言われてしまって。親御さんになんて説明しよう、これは私も真知子先生と一緒にリタイアか、なんて頭をよぎるくらいでした」。すぎのこでは、保護者に医療従事者含めエッセンシャル・ワーカーも多く抱えている。なんとかしなければという一心で、州のチャイルドケア・ライセンス管理機関にも情報を問い合わせた。「ギリギリの9月半ばになって連絡があり、レドモンドの元保育施設の物件を紹介してもらえました。ただ、問い合わせが殺到しているから難しいかもしれないとのことでした」。電話を切るやいなや内見を申し込み、足を運んだ。それが新園舎だ。「チェックをすぐに切るから貸してくれという方もいたそうです。それでも、すぎのこの長年の実績から信頼できると選んでくださった。頑張ると、運って本当に開かれるんだなと思いましたね」
コロナ禍で見えないウイルスの怖さはあれど、保育の現場は何ら変わることはないと言う。「逆に工夫する楽しみを教えられたように感じています。コロナだから『これができない』のではなく、『これだったらできる』。たとえば、なるべく外に出て青空教室にしましょう、とか。すると、子どもたちもうれしそうに『ピクニックだね』って」。時代の変化を察知し、常に新しいものを生み出していかなければならないのは保育も同じこと。自分たちが率先して見せることで、マイナスをプラスに変える力を子どもたちにも養ってほしいと語る。幼稚園を閉めなければいけなかった4カ月の間、YouTube動画も配信した。「大人もパニックを起こしているのを実感しました。親がストレスを感じていると、子どもはもっと感じます。子どもを守るのは親の仕事。恐怖を感じるのは当然です。せめて私たち保育者はリラックスして、お歌など、普段と変わらないような時間をなるべく楽しく、幼稚園とずっとつながっていられるように提供してあげたいと考えました」
新生すぎのこスクールの今
昨年末に移転し、新園長としてうれしい忙しさにてんてこ舞いのしおんさん。「私自身は30年、純粋な保育者としてここまで来ましたので、本当はオフィス仕事に向いていないんです」と笑う。前園長から「しおん先生は子どもと一緒にいるのがいちばん合っている。オフィスに留まるような園長にならないで」と、エールをもらった。その言葉通り、今も現場の先生たちと一緒に保育に入り、一緒に悩む日々を送る。「30年やっても、子どもはみんな違う。あの子にこれができたからこの子にもこれができるっていうことは全くないんです。だから常に、共に学んでいる感じです」。やりがいは、日に日に変化する子どもの姿を見ていられること。「できないことをずっと助け続けるのではなくて、ちっちゃなハードルを少しずつ一緒に考えながら越えていく。それぞれの歩幅はあるけれど、先生が必要な子じゃなくて、『できた!』という気持ちを知って自分に自信を持てる子になってほしいんです」
今後の展望はという問いに、「在アメリカの日本語教育機関として、文化だけでなく日米それぞれの幼児教育の良さを融合していきたい」と語る。「先生にもそれぞれ個性があって、いろんな先生がいるから、いろんな子どもに対応できる。子どもたちが自分らしくいられ、先生もその個性を生かせる場所にできたらと思います。そして、子どもたちだけでなく、パンデミックで不安を抱える親御さんの気持ちにも寄り添っていきたいですね」