苦労と喜びを経て日系コミュニティーとつながる今
ツチノ・フォレスターさん
現在、全米国際結婚友の会や、シアトル日系人会の会長、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)の理事を務めるツチノ・フォレスターさん。偏見の中でも夫のマイクさんと共に笑い、共に歩んできた日々を振り返ります。
取材・文:加藤瞳
この子は変わり者
「小さい時から頑固で意地っ張りだった」と、自己分析するツチノさん。女学校進学も、親に相談することなく受験し、学費を払って欲しいと合格通知を手に父に直談判した。こうと決めたら真っ直ぐ突き進むツチノさんに、親も「この子は変わり者。放っておいても、いずれ出世するだろう」と、根負けするほどだった。
ツチノさんの生家は大きな地主として知られていたが、戦後の農地改革により多くの地所を失う。加えて、ツチノさんが女学校1年生の時に父が急死し、兄が急きょ学校を中退し家督を継ぐことに。大学進学を熱望していたツチノさんも、諦めざるを得なかった。女性のツチノさんが長男よりも高い学歴を持つことは許されなかったのだ。「これで私の人生はもう終わった、と思いました。絶望しかなかった」。ツチノさんが生まれ育ったのは、福岡県北部の農村、春日村。女が職に就くことは考えられなかった。「このまま家にいては家の都合で結婚して終わってしまう。それだけは嫌だという気持ちがありましたね」
マイクさんと出会ったのは24歳の頃。第一印象は良くなかった。1ドルが360円だった時代、空軍2等兵であったマイクさんの月給は、地方の日本人の年収ほど。「何を金持ち気分で威張ってるんだ。今に見てろ、大和魂を見せてやる!と思っていました」。一方、マイクさんは、ロングの黒髪をなびかせ、小柄ですらっとしたツチノさんの美しさにすっかり虜になっていた。ニューヨーク州ブルックリンで生まれ、クイーンズのロング・アイランド・シティーで育ったマイクさんの家はとても貧しく、5人兄弟の長男であるマイクさんは、家族を助けるためにと空軍に志願した。「当時の夫は、いずれ大学に戻って勉強したいと考えていました。そういう心根に引かれたんでしょうかね」。ツチノさん自身、外の世界に出たいという気持ちもあった。「軍の学資金で、私ができなかった代わりにこの人を大学に行かせ、育ててやると思ったんですよ」