1902年に創設されたシアトル国語学校校舎を継承し、現在の日本語学校や日系コミュニティー集会所として運営するワシントン州日本文化会館。同会館の事務局長を務めるカレン・ヨシトミさんに、自身の日系家庭について、リドレス運動について、JCCCWの歴史とこれからについて語ってもらった。
取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:室橋美佐
ワシントン州日本文化会館(JCCCW)
事務局長
カレン・ヨシトミ
Karen Yoshitomi
■ ワシントン州日本文化会館事務局長。スポケン生まれ。高校時代はタコマで過ごす。ワシントン大学で心理学を学んだ後、Japanese American Citizens League (JACL)で20年以上にわたり勤務。2014年から現職。
日系の歴史を始めて知った学生時代
幼い頃はスポケンで過ごしました。スポケンでは、日系人である我々家族はまさに「マイノリティー」。人種差別もありました。家族の会話でも、日系人としてのアイデンティティーや戦争中の強制収容の話をすることは一切ありませんでした。しかし、初めて他の日系人家族に出会った時、両親は待っていたかのように「キャンプへ送られた?」「どのキャンプにいたの?」と話し始めたんです。私も、他の兄弟も、何のことだか分かっていませんでした。
ワシントン大学でアメリカ民族研究プログラムとアジア研究プログラムを履修しました。それを機に、幼い頃に耳にした「キャンプ」の意味を初めて知りました。テツデン・カシマ教授の授業で、戦時中の日系人強制収容と投獄について学び議論する機会を得たのです。当時、私たち家族は祖父母と同居していたので、彼らに話を聞きました。祖父は既に80歳を過ぎていました。もっと早くから話を聞けていたらと思います。祖父はあまり多くを話したがりませんでした。苦い思い出だったのでしょう。祖母からはたくさんの話を聞くことができました。といっても、私が聞き出さなければ、祖母も自らは多くを語りませんでしたが。
大学を卒業してJACLで働き始めました。ここでさらに日系移民の歴史について私の好奇心が広がりました。当時は80年代後半で、リドレス運動(アメリカ合衆国政府に対して、日系人強制収容に対する謝罪と補償を求める運動)が終結を迎える頃でした。(レーガン元大統領の日系アメリカ人補償法署名後に)司法省が、補償の対象になるべき日系人を定める業務を手伝いました。この業務の中で、何年にもわたって自身の経験や想いを語ることのできなかった人々に出会いました。この戦後補償実現は、そうした人々にとって本当に意義のあることだったんです。残念ながら私の祖父は、レーガン大統領が署名した1988年には既に他界していました。しかし、私の祖母、母、叔父や叔母にとっては大きな出来事になりました。私の母は1930年生まれなので、強制収容へ送られたのは母が12歳の頃だったはずです。
日本文化会館のルーツ
日本文化会館は1902年に「国語学校」として始まりました。創設時の文書などを読み返すと、「日本の言葉を伝え、文化を伝える」ことが目的だとあります。校舎は学校としてだけでなく、集会所としても使われていました。県人会、庭師協会、商業団体などが集会やイベントを開催する場でした。実のところ、100年以上たった現在でも日本文化会館として全く同じように機能しています。
変化している部分もあります。かつて日系コミュニティーはシアトル社会全体からは孤立し、内に閉じた存在でした。日系社会に対して大きな誤解、偏見、差別がありましたから。しかし今は違います。現在では日系の血を継いでいなくとも、日本の文化、芸術、言語に興味をもつ人々がたくさんいて、そうした人々全てに支えられています。素晴らしいことです。色々なバックグラウンドを持つ人に日本文化を伝える、外に開かれた状態と言えます。
20世紀初頭に建設された校舎は、公的補助金を受けて必要な改修などが施されながら歴史的建築物として保護され、会館施設として使われています。定期的なプログラムとして日本語学校の他に、柔道、合気道、誠道空手、少林寺拳法、太鼓グループが活動しています。会館内の稽古場は外部の道場にも貸し出され、夕方はとても賑やかです。昼間もさまざまな団体が集会や稽古に会館施設を使っています。非営利団体であれば低料金で、メンバーであれば無料で貸し出されています。日英両言語の書籍が並ぶ図書館もあり、毎週火曜日と金曜日にボランティアによって運営されています。
ストーリーを伝えることの大切さ
日本文化会館の「Omoide」プログラムは、強制収容の歴史を経験者自らが自身のストーリーとして伝えていくプロジェクトです。JACLでも同様の活動があり、そこでは「The Power of Words」と呼ばれています。あえて「強制収容」とか「撤去」という言葉を使わないのは、そうした直接的な言葉を使えば、逆に誤解を招くからです。「Omoide」は、過去の経験を気兼ねなく語れる場です。(注:Omoideで語られるストーリーは、北米報知新聞の毎月第1木曜日号に掲載されている)
歴史の多くは男性によって語られます。それが戦時中の話であれば特にそうでしょう。女性が語るストーリーは男性とは違う視点になります。女性は家族をまとめ、文化を保っていく立場にいましたから。女性は公の場で自身の経験を語るような機会がなかなかなかっただろうと思います。Omoideでストーリーを語る女性の多くは、自身の経験は人に語るほど大それたものではないと言います。それぞれの局面でやるべきことをやってきただけだと。しかし女性が語るストーリーは、時に驚くほど壮絶です。
コミュニティーの絆を繫ぐ
隔月第3木曜日には、日系コミュニティー・ネットワークという会合が行われています。県人会、敬老ノースウェスト、日米協会など約30団体からの代表者が集まり、情報交換をします。日系イベントの日程が重ならないように調整したりもしています。
最近の新しい動きとして「Friends of Japantown」も会合を行っています。かつて栄えた日本町を残し伝えていこうという試みです。ウィングルーク美術館では、日本町のツアープログラムも開始されました。8月26日には「Nihonmachi Night」のお祭りも開催予定です。日本町の中心に位置するパナマ・ホテルは現オーナーが売却を予定していますが、同ホテル内にある銭湯跡などは何かしらの形で残されるはずです。
日系アメリカ人としてのコミュニティー意識は少しづつ薄くなっているとも言えます。しかし若い人たちも、自分たちの中に残されているDNAに興味を持っているのも確かだと思います。これまでの日系コミュニティーの意識は、「保護する」という点にありました。自分たちのコミュニティーを外部から守らなければならなかった。現在においてはそれは違ってきていると私は思っています。私の仕事は、この旧校舎やコミュニティー集会所としての文化会館を残していくことにあります。ただ残すだけでは意味がなく、さらに成長させていかなければなりません。そのためにこの場がより幅広い人々に利用されるようにしていきたいと思っています。
7月にはサマーキャンプを開催して、日本文化に興味を持つ子どもや若者を受け入れます。8月は「All Things Japanese sale」も開催します。同セールスイベントでの売り上げは文化会館の運営資金になりますので、日本に関連する品なら、ぜひ何でも寄付してください。本当に素晴らしい寄付品が毎日のように持ち運ばれてきています。ある男性は鋳鉄製鍋を20点以上も届けてくれました。大量に寄付いただいた漆椀には、「Made in Occupied Japan(占領下日本)」の印がありました。歴史と、人と、コミュニティーとつながりを深められるこの仕事は、私の天職です。
Japanese Cultural and Community Center of Washington(JCCCW)
住所:1414 S Weller St, Seattle
詳細:www.jcccw.org