こんにちは、みやざきみわです。
昨日シアトルに到着して、トム・ハンクスとメグ・ライアンが映画で使ったというお店でクラムチャウダーを食べてきました。シアトルという街が本当に大好きな私は、滞在1日にしてすでにいずれ帰国せねばならない事に寂しさを覚えております(笑)。
こちらに来る前にようやく日本も秋らしくなって、不思議な事に9月になるとそれ相応の風が吹きます。人もそんな風に、その時々に相応の暮らしができると良いですね。
私事ですが6月に父が他界しました。医者の宣告もあり、覚悟はしておりましたが、たとえ覚悟していたとは言え、自分の価値観を作ってくれた人であり、私の成したささいなことでも大手柄のように喜んでくれる唯一の存在がなくなるのは寂しいことではありました。しかし、そのことを通してたくさんのメッセージももらいました。
父は会社経営を50歳半ばで引退して、60歳から神主デビューをし、人のために尽す人生を最後に選んだのです。その志は尊敬はしておりましたが、病院に行きますと最後の頃にもまだ、人様の縁談や家相などの相談を気にかけているので「お父さんさ! 人のことは、今はとりあえずもういいんじゃないかな」と声をかけました。「もうそんな場合じゃないのに、いい加減にしないと」と心で思ったのです。しかし父が旅立ってしまうと、「お父さんは、どこまでいっても人が幸せになる姿や成長が好きなんだから、あんな言葉をかけないほうがよかったな」と思いました。
ところが50日祭(法事)の時に母が、父は最後に「人のことばかりしすぎた」とつぶやいた、と言ったのです。それを聞いたとき、高度成長期を支えてきた時代の人ほど頑張る傾向にあるけれど、父のように第一線を退いて穏やかな神の道を選んでも「せねばならない」という固定観念は抜けないのだなと思いました。
このたびの父のことで私が感じたことなのですが、私がお付き合いをする働く男性の方々もよくこう言われます。「仕事だからしょうがない」。このしょうがないを聞く度に悲しい気持ちに襲われます。この世からどうしたら「しょうがない」がなくなるのだろうと。
もしかしたら「しょうがない」と「せねばならない」は同じ意味あいかもしれません。「しょうがない」と口にしているだけで、実は仕事が大好きでしょうがない人もいらっしゃるでしょうけれど。
仕事というのは達成した時の喜びを大きく感じられるために途中経過に困難があるのであって、それも角度を変えるとご褒美みたいなものだと私は思ってます。そもそも仕事を通した世の中への自分のお役割が明確で、そのお役割が自分の相応であれば、「しょうがない」はなくなるかと思うんです。こう言うと「頑張るな」というように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、頑張るのはいいのだけど、「自分の体調に見合っているか、生活のリズムに合っているか?」
いろんな「見合っているか」を確認しつつ、相応の仕事をしてもらいたいなと願っているだけです。
分相応というのは不平等な意味合いに取られがちですが、自分に見合うという言葉です。常に自分にバランスのよい生き方を目指してもらうと良いですね。
私は父のことで新しい役割を見つけました。頑張りすぎている人って自分では気がつかないので、私が後ろから肩を叩いて「頑張り過ぎ注意」を教えてあげよう、などと思った次第です。
[お役割]