こんなことが今まで分からなかった。私は24歳から北米で生活しているにもかかわらず、いまだに日本式のコミュニケーションに頼っていたようだ。この機会に貴重な経験を書き留めておきたい。
数年前、愛犬を亡くして落ち込んだ友人を夕食に招待し、「自分は母が死んだ時も泣かなかったよ。早く元気を出して」と伝えたところ、彼は「君は人の気持ちがわからないのか」といっそう落胆した様子だった。
また別の友人は、年老いて身寄りをなくした知人を親身になって世話していた。先日彼は私に、この知人を住みやすい介護施設に入れるまでの苦労話を語ってくれた。それを聞いた私は「自分ならこうしていただろう」と自らの考えを述べた。すると彼はものすごい剣幕で怒り出してしまったのだ。
これらの失敗が記憶に新しい折、とある友人が、恋人の浮気を知って大きなショックを受けていると私に打ち明けたので、やんわりと「せっかく何年も付き添ったのだから、今別れるよりも早く仲直りしたほうが良い。もう許してあげたら?」と言ってみた。すると彼は「自分も許すつもりでいるが、もう少し愛人を懲らしめたいし、自分も苦しんでいたい」と複雑な心境を述べた。ここで私は自分の考えを言うのをぐっとこらえ、彼の意思を尊重して「それが良いね」と相づちを打ったところ、今度は大変に感謝されたのだった。
考えるに、人は難題に直面したとき、自らの力で立ち直るための処理方法をそれぞれに持っているようだ。西洋人が他人に愚痴をこぼすのは、おそらく日本人のように相手に解決方法を尋ねているのではない。聞き手が軽はずみに「こうしたら?」と助言しても、西洋人にとっては余計なお世話で、助言はむしろ批判ととられてしまう。
ちょうどこの原稿の執筆中、シアトルから精神分析医の友人が訪ねてきたので、このことを話してみた。彼女いわく「日本(日系)人と北米の西洋人は、情報シェアにおいて違ったプロセスを期待する傾向にある」という。日本人は他人から相談を受けた際、相手がその解決方法を提示してくれることを期待するのに比し、西洋人は普通、単に自分の悩みを相手に伝えたいだけで、アドバイスを期待している訳ではないのだとか。
日本人の私にとって、友人から悩みを打ち明けられるのは信頼の証だと思うから、困っている相手に助け舟を出せないのは極めてつらい。しかし文化的背景の違いは時に他人を傷つけてしまうことがあるのだと、身をもって学んだ。
すでに45年が経った北米生活、善意をもってすれば西洋人ともうまくやっていけると、それでも私は信じている。
[カナダで再出発]