晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して Vol.21
日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。
第21回 もしも中森明菜がいなかったら
80年代の日本のアイドルを語るうえで欠かせないのは「花の82年組」の存在です。小泉今日子、早見 優、堀ちえみ、シブがき隊など、現在も活躍するスターを多く輩出しました。中でも異彩を放っているのが中森明菜(1965年生まれ)です。多くの82年組アイドルが1983年になってからヒット曲を生み出すようになったのに対し、明菜だけはデビューした1982年のうちから3曲目のシングル「セカンド・ラブ」でオリコン1位を獲得しています。
東京都出身で歌手を夢見た明菜は、アイドルの登竜門としておなじみのオーディション番組「スター誕生!」に出場3回目で合格し、デビューを果たしました。収録日はちょうど16歳の誕生日の2日前でした。決勝の際歌ったのは山口百恵の「夢先案内人」。明菜と百恵は、少女の中に大人っぽさとかげりのある雰囲気など共通点が見られます。オーディション本戦の1回目は岩崎宏美の「夏に抱かれて」、2回目は松田聖子の「裸足の季節」を歌いましたが、いずれもデビュー以降に明菜が築き上げたイメージとは異なっています。そう考えると、デビューのきっかけとなるオーディションの選曲はいかに重要かがわかります。
1982年5月に発売したデビュー曲の「スローモーション」は、来生たかお作曲、来生えつこ作詞で、恋の予感と戸惑いを歌った名曲です。実は明菜のデビュー曲をめぐって、他の候補曲が存在したという説があります。加藤和彦プロデュース、作詞は安井かずみ、そして作曲は高橋幸宏と細野晴臣というチームで作られた楽曲だそうです。加藤は60年代にザ・フォーク・クルセダーズ(代表曲「帰ってきたヨッパライ」)、70年代にサディスティック・ミカ・バンド(代表曲「タイムマシンにお願い」)を結成して活躍した、アイドルとは無縁のように思える音楽家です。安井は辺見マリの「経験」(1970年)や沢田研二の「危険なふたり」(1973年)など、70年代のヒット曲に数多く貢献している作詞家。そして、高橋と細野というYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)メンバーによる楽曲となると、一体どんな曲だったのだろうと想像が膨らみます。しかし、この曲は退廃的過ぎるとして却下されてしまったとか。
明菜は深く暗い世界観も歌える、むしろそういった曲こそ魅力を発揮する歌手へと成長しました。その過程にはアイドルからの進化が見られるわけですが、幻のデビュー曲ですでに退廃的な世界観を打ち出していたら、私たちの知っている明菜は存在していたでしょうか?もしも日本の歌謡曲の世界に明菜がいなかったら? 今年5月にデビュー40周年を迎える歌姫の誕生秘話に思いをめぐらせてみました。