2020年より5年間にわたってお届けしてきたこのコラムですが、今回の第52回が最終回となります。これまで、日本の歌謡曲にまつわるよもやま話をご愛読くださり、本当にありがとうございました。
最終回は私の大好きな歌手、藤圭子について書きます。以前、このコーナでも彼女のヒット曲のーつ『圭子の夢は夜ひらく』について少し触れたことがあります。藤圭子は演歌の誕生にとても重要な存在です。彼女は1960年代後半、演歌がまだ対抗文化と強く結びついていた時代にデビューしました。今でこそ「日本の心の歌」と称される演歌ですが、当時はまだそのようなイメージはありませんでした。では、藤圭子が歌った演歌がどんなだったかというと、それは、ずばり「恨み節」です。北国育ちで旅芸人の両親とともに各地を転々とした苦労話が誇張され、地方から都会へ出てきた若者や労働者階級の人々の共感を呼び、大スターになりました。彼女が人気を得た理由は、辛い生い立ちと、ギターを背負って夜のネオン街を練り歩いて自分の曲を宣伝するという、汗と涙の苦労人としての姿が功を奏したからです。黒いパンツスーツに白いギターという、現在の演歌歌手とはほど遠いいでたちで、プロデューサー陣からは「笑顔を見せるな」ときつく指導されていたとか。デビュー曲の『新宿の女』(1969年)では、ドスの効いたハスキーボイスで、「バカだな、バカだな、だまされちゃって」と夜の街をさまよう少女の自虐的な姿を歌いあげます。彼女のイメージがたとえ作られたものだったとしても、夜の都会を舞台に響く藤圭子の暗い恨み節は、同じように地方から上京し、都会の波にもまれながら暮らす多くの若者の心をつかみました。彼女が舞台とした新宿は、当時、社会運動や前衛芸術の拠点でもあり、希望と挫折を隣り合わせた独特のエネルギーが渦巻いていました。そんな中、藤圭子の恨みがかった暗いムードの歌は、聴く人の心に光を灯しました。
演歌はその後、1970年に始まった国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどのふるさとブームの波に巻かれ、望郷をテーマとする「日本らしい」歌謡曲へと変化していきます。この演歌の変へんせんき遷期にまたがり、北国の田舎と都会のネオン街、両方のイメージを背負った藤圭子はまさに境界を越える演歌歌手でした。しかし、皮肉にもイメージチェンジを図り「女性らしさ」を打ち出した楽曲『京都から博多まで』(1972年)あたりから彼女の人気は下降し始めます。
私は、藤圭子の初期のレコードを数枚持っていて、心が疲れたときには、彼女の恨み節が恋しくなって聴いています。皆さんの心にも、きっと歌が光を灯しますように。