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多文化主義の国、カナダ その1

パンジャビ市場では毎年11月に祭4月にパレードを開催通りを歩くとほのかにカレーの香りがしてくる宝石店などもありインド文化を垣間見る

古巣のシアトルを訪問すると、白人が多いのに気付く。ピックルボールをプレーするシニアもほぼ白人。この不寛容ムード漂うご時世、大勢の白人に囲まれるとドキッとしてしまう。一方、バンクーバー都市圏は人種が雑多で、マイノリティーの人種でほぼ半数が構成され、そのほとんどはアジア系だ。バンクーバーに戻ると、なぜかホッとするのはそんな理由からかもしれない。

リトルイタリーでも7月に祭があるイタリア文化に浸りながらの散策が楽しい写真はレストランマルチェロの神の子と呼ばれるピザ窯

バンクーバーの人種構成の特色は隣人たちにも見られる。同じ階の住民は、スリランカ系家族、台湾系学生、ラテン系と中国系のカップル、そして筆者と、全て移民1世。あとは退職した白人のカナダ人女性、という具合だ。カナダ政府は、多文化主義を国の伝統とアイデンティティーのひとつと銘打つ。移民の先駆者たる英仏系住民が総人口に占める割合は1960年代には3分2に減少した。トロントとバンクーバーの大都市圏は70年代以降の移民がほとんどアジア系で、今では両都市圏とも白人は半数をやや下回る。ちなみにバンクーバー都市圏では中国系が最多で、その数なんと約50万人。インドを含む南アジア系でも約30万人いる。

キツラノにあるグリークタウン2000年代に入るとギリシャ系住民は激減したが2005年にギリシャの日が復活し毎年6月には祭も行われる

バンクーバーでエスニック色が顕著なのは、70年代からインド系の店舗が急増した「パンジャビ市場」だ。コマーシャル・ドライブに「リトル・イタリー」があるが、やはり70年代からエスニック色が強め。キツラノにある、70年前後に独裁政治を逃れて来たギリシャ人がつくった「グリーク・タウン」も、その影は薄くなっている。最大マイノリティーの中国系は、ダウンタウン東端に位置する「チャイナタウン」に加え、80年代に香港・台湾から富裕層が移住した南隣のリッチモンド市が代表的。リッチモンドは市の人口の半数以上が中国系で、「ゴールデン・タウン」と呼ばれる。近年目立つのは韓国系で、ウエストエンドと呼ばれるダウンタウン西端の一角は軒並み韓国料理店。筆者も相棒のジェームズ(韓国系)と、よく石焼ビビンバを食べに行く。東に車で30分ほど行ったコクイトラム市もまた、一大韓国村へと変貌した。

チャイナタウンはカナダ最大規模だがリッチモンドが大きくなるにつれ一時ほどの活気は見られなくなった

さて残念ながら、われわれ日系は約3万人とごく少数派。戦前までガスタウンの東に位置した旧日本人街や、90年代から2000年代初頭にダウンタウンにあった「リトル銀座」と呼ばれる新日本人街も消滅した。現在は、バーナビーに日系施設が存在するくらい。日系食料品店も小規模なものが数軒と限られる。

1900年前後に栄えた旧日本人街では今も寺や教会日本語学校などが当時の面影を伝えている日系人夏祭りパウエル祭も開かれる

カナダには政治的理由で自国を逃れた移住者が多いのも「カナダ人は優しい」と言われるゆえんか。自国での経験が、互いの文化や価値観を尊重して平和に暮らす、多文化共生の原動力になっているのでは、と考えさせられた。

コクイトラムとバーナビー両市の境にあるコリアタウンHマートとハンナムマーケットの2大スーパーを中心に並ぶ韓国系の商店やレストランはざっと100軒を数える日本的な商品もあり筆者も時々買い出しに訪れる
武田 彰
滋賀県生まれの団塊世代。京都産業大学卒業後日本を脱出。ヨーロッパで半年間過ごした後シアトルに。在シアトル日本国総領事館に現地職員として39年間勤務。政治経済や広報文化などの分野で活躍。ワシントン大学で英語文学士号、シアトル大学でESL教師の資格を取得。2013年10月定年退職。趣味はピックルボールと社交ダンス。