在シアトル日本国総領事館に現地職員として39年間勤務した後に、2013年定年退職した武田 彰さんが綴るハッピー・シニアライフ。国境を超えるものの、シアトルに隣接する都市であるカナダのバンクーバーB.C.で過ごす海外リタイアメント生活を、お伝えしていきます。
後悔先に立たず
ワシントン大学在学中に出会った米文学の課題作の一つで、何度か映画化もされているスコット・フィッツジェラルド原作の『グレート・ギャツビー』。作品の最後、主人公のギャツビーは過ぎ去ったデイジーとの恋を取り戻そうと、水面の向こう側にある屋敷の桟橋に点滅する緑の光を眺めつつ、手に入らない夢への妄念に苦しむ。結果、思いはかなわず突如事件によって命を落としてしまう。 期待外れに終わったり、行方が予期できなかったりした決断は後悔しても後の祭り。自分にも、そんな忘れられない苦い思い出がいくつかある。

図書館に『グレート・ギャツビー』を借りに行ったが、全て貸し出し中。あるのはオーディオブックやDVD、批評本、翻訳版等のみ。名作はいまだに人気があることがわかると同時に、媒体の変遷ぶりにも気付かされた。写真は関連ドキュメンタリーのDV
5、6歳の頃だったか、ある日魚釣りに行った後、収穫物をバケツに入れて神社の境内を通り過ぎると、知り合いの男の子が友だち数人と遊んでいた。何の魔が差したのか、私は楽しそうに遊ぶ彼に意地悪しようと、少年の背の低さか何かを揶や ゆ揄したのだ。はずみに、彼はそばにあった石をつかみ、私めがけて突進して来るではないか。何が起ころうとしているかをとっさに予期したり、迫る災いを避けたりする術をまだ知らない我が幼い頭をめがけて、彼はその石で、「がっつん。」 額のど真ん中を殴られた私は、顔面血だらけ。急いで家に帰るや「将来顔に傷が残る」と、驚きと同時に心配する母。たまたま殴った子の父親が父の会社の従業員だったこともあり、わが子可愛や父は、経緯を十分聞かないまま血相を変え、殴った子の家に一目散。私はというと、自分が悪かったことは薄々感じつつも、自分を守るために黙秘権行使。黙っていたことで無実の子の親が叱られるという不合理と、その原因を作った罪悪感に若干かられた。この事件のてん末が一生の後悔になるとは知らず。ちなみに我が額には母の懸念通り、悪業の烙印が今でも残っている。

あどけない小さな子どもでも、人間特有の意地悪さ、残酷さ、悪意といったものを併せ持っていて、人の嫌がることをすることもある。写真は幼い頃の筆者

今でも残る縦のしわは罪の証あかし。横しわは幸福しわと呼ばれ、「天紋」、「人紋」、「地紋」と3本あるのがベスト、とネットで読んだが、これはおそらく単なる老人の証
大学生になって、父が京都四条河原町に開いた喫茶店でアルバイトをしていた頃、朝番の時は客の来ないうちに床にワックスをかけるのが私のポリシーだった。今思えば、朝来てくれた客が何人かいるのもかまわず、やかましい電動ブラシを床に滑らしていたのだ。常連客たちがそれでも文句を言わずにコーヒーを飲みに来てくれたのは、当時、京都のど真ん中でも喫茶店が少なかったからだろう。ある時、私はやくざの一員と思しき若い客に、無謀にも「出入り禁止」と言い放った。筋書き通り、「表に出ろ」と、裏通りに連れられ、どこから出してきたか、彼は日本刀を抜いて私を脅したのだ。その時、騒動を知った客の一人が、怒る彼を何とかとりなし、思いがけず我が命の恩人となった。電動ブラシのうるささに文句すら言わない上、私を助けてくれた優しい紳士。彼の偉大さが我が後悔をさらに深めている。
1973年11月、「日本は自分には住みにくい」と、考えもなくヨーロッパめがけて京都を去った。後になって、さぞかし心配しただろう今は亡き母を思うと胸が痛む。生前、別れを悲しむ彼女の心をいたわる優しさすらなかったわがまま息子。出発前日、親父と兄が「どうしても行くのか」と私を止めに来た。親の心配などに思いを寄せず、頑として首を縦に振らない私の態度に、半ばあきらめたのか思ったよりあっさり引き上げた父と兄。今考えると、男たちの心配は母のそれとは別の種類に思える。


日本を出てギリシャに落ち着くまで欧州数カ国を回ったが、若さと無知もあって何も怖くなかった。オランダで一度スリに遭ったが、ほかは何も事故がなかったのはラッキーか。今では逆に老齢と怖い情報が邪魔をして知らないところには行きたくなくなった。若いうちに行っておいてよかった
日本を出て、英独仏国を巡った後、ギリシャのミコノス島に落ち着いたのだが、当時の通信といえば青色のエアメール便箋、着くまで5日間かかった。母は、手が以前のようにいうことを聞かなくなったとこぼしつつも、私の返事を期待してか、しばしば日本の様子を知らせてくれた。高い送料を払って一緒に送ってくれた週刊文春は、浅はかかなそのころの私には母の手紙よりありがたかった。受け取った手紙はカナダまで持って来ているが、当時の彼女の気持ちを考えると怖くて、恐らく死ぬまで読めないだろう。

シアトルに住んでいた当時、山登りが長年の趣味だった。山頂にやっとこさたどり着き、真夏でも雪を頂く山々を眺め、その景色に湖が加わればもう天にも昇る思い。カスケード山脈をワシントン州のレイニー峠から北に、カナダのマニング公園まで70マイル強を7日間、30ポンドのバックパックをしょって歩いたこともあった。カナダへの国境地点にはそれを記す石碑がただぽつんと建っていた。思えばこれは我が将来への予告だったのだろうか
父は私が幼い頃、滋賀県で経営していた事業でいつも忙しく、さらに京都に事業を広げたこともあって、私と親しく話すことがなかった。シアトルに住んで幾十年、父の人生が残り少なくなった時、そんなことは意識せず私は里帰りをした。一晩だけ私と一緒に同じ部屋で寝たい、とせがむ父。その切迫さを感じながらも、今さら初めて父と寝るのは乗り気がしないと、断ったのだ。今思うと、きちんと話したことがなかった私に最後の別れをする唯一の機会だったのだろう。後悔先に立たず。