難しい異文化の完全理解
異文化間の理解について考える際にふと思い出すのは、5歳で両親と日本から英国に移住した長崎生まれのノーベル賞作家、カズオ・イシグロ氏だ。映画にもなった『日の名残り』で一躍名を上げ、1995年には新著のプロモーションのため、シアトルで座談会を行っている。
24歳で渡米後、ワシントン大学を含め18年かけて英語・英米文学を学び、シアトルに住んで20年が経とうとしていた私は、イシグロ氏のように英語に堪能になれないのがくやしかった。このイベントでネイティブ的な話しぶりを目の当たりにし、その英語力に納得したことを覚えている。それに比べ自分は北米に50年住んだ現在でも、表面的なこと以上の深い北米文化については十分理解できていないのではないか。日英翻訳のプロでイギリス留学経験がある東京在住の友人は言う。
「イシグロ氏は自分がアジア人だから英国風のものは書けないと思われるのが癪で『日の名残り』を書いたと聞いた。映画を観たが、確かに英国的だった。努力で語学を学んだ場合、文化の理解には限界がある。単語を日本語でまず理解している以上、元の単語にどのくらいのニュアンスがあるかがわからない。それで文化がわかるわけがない。ある程度まで日本で暮らしたらやはり、日本の観念、文化、価値観が身に付いていて、英語で同じ単語を発していてもそれが本当に意味するところなのかはわからない」
そう言えば、日本のドラマや喜劇では出演者の言動の背景やおかしさが即座にわかるが、英語だとこうはいかない。特に英語圏出身の地元民のジョークは、周りが笑っているのにそのおかしさが理解できなくて困ることが多い。「たとえば、I will do as best I canとI will do my bestが違うのはわかるけれど、どのくらいのやる気が込められているのか、どれくらいの約束が担保されているのか、とか。日本語だったら、そういうことは以心伝心で察するところだろう。あと、欧米文化は冷たい感じがどうしてもする。まあ、しょうがないよねというような『あわれ』を随所で感じる日本人には、それが少なく見える文化は理解できない」とも、説明してくれた。
北米で生活していると、かわいそう、気の毒、わびしい、 不憫、思いやりといった、友人の指摘する「あわれ」のなさを感じることはよくある。もうひとつ、日本人の考え方の根源にある「人に迷惑をかけない」という鉄則もそうだ。たとえば、ピックルボールに来るトルコ系移民の兄弟は試合が終わっても「もう1回」と真顔で言い寄るが、日本人は嫌がる相手にしつこく迫ることはしない。別の日、彼らのいとこが私のパートナーになってプレーした時、「(ボールは)アウトだったのに」と、私をにらんで非難する。こういう場合、日本人なら相手に「悪い」と思って黙るか、「あわれ」の気持ちから相手の失敗を「入っていたかも」と慰めようとする。
異文化の中で育った他人の言動を自分の観念、道徳、価値で捉えないようにすることは難しい。しかし、他人は皆、自分と違うことを常に頭に置いておく必要があるのだろう。