50代半ばの女性が初めて来院したのは、ちょうど3年前。補聴器の掃除と調整に訪れたことがきっかけだった。生まれつき、両方の耳の形が異常で、耳穴の形もかなり狭く、極度に曲がっていた。
すでに退役していたが、昔は軍に所属し、精神科医として勤務していたそうで、人当たりが良く穏やかな性格の女性だった。彼女が両方の補聴器を外すと、全く何も聞こえなくなるようで、補聴器をきれいにしている間、雑誌を読んで時間を過ごしてもらっていた。
私も学校で学ぶまでは知らなかったことだが、耳の形成は受精後3週目から始まる。まだ、人間の形になる前に、耳、特に内耳の形成が始まり、受精後 20週で内耳が完成するということだ。それを学び、人間にとって聴力がどれだけ重要なものかを改めて認識した。
彼女の場合は、その手前の外耳と中耳の形成途中に問題があったようだ。彼女の高校生の息子も耳穴と耳たぶが異常で、遺伝だとは思うが、ほかの3人の子どもたちは正常な耳の形状をしているそう。たまたま胎児の形成途中で問題が起こったのかもしれない。息子の聴力は正常で、そう伝えると彼女はほっ としていた。
彼女は難聴だが、内耳の聴力はほぼ正常。外耳と中耳の音を伝達する部分で問題があり、補聴器なしでは会話ができない状態だ。今では当たり前になっているが、新生児が病院で誕生した場合、退院前に簡単な聴力検査を行う。
聴力に異常が見られる新生児は、生後3カ月になるまでに本格的な検査を受ける。彼女が生まれた当時はそのような制度がなく、聴力異常に気付いたのはいつかわからないが、舌足らずの話し方を聞いていると、かなり長い間放置されていたことがわかる。
沈黙の15分が過ぎ、きれいになった補聴器を片方の耳に入れると、途端に会話 が始まる。「How are you?」の挨拶から家族の話まで、堰を切ったように話しかけてくる。毎回、その瞬間を経験するたびに、聴力や会話の大切さを再認識する。
「お腹の中にいる赤ちゃんに音楽を聞かせたり、話しかけたりすることは大事」とよく言われているが、その通りだと思う。これから親になる人は、生まれてくる赤ちゃんにたくさん話しかけて あげて欲しい。