70代前半の女性が聴力検査に来た。彼女は今年1月に夫を亡くしたばかりで、今は独り暮らしだ。娘から聴力の問題を指摘され続けて来院してみたが、聴力は正常だと思っていると語っていた。大手企業の大型送迎バスの運転手として何十年も仕事をしてきて、まだまだ仕事を続けるとのことだった。
受付スタッフによると、初日、野球帽をかぶって現れた彼女は、クリニックの場所がわかりづらいことや、数ページの問診票を書くことへの不満を、大声で食ってかかるような物言いで、さらに人の話を最後まで聞かずにその内容を中断するかのように話していたそうだ。とても怖かったと、その受付スタッフは後日話してくれた。
聴力検査を始める前に、彼女から矢継ぎ早にいろいろな質問があった。そのほとんどに聴力検査をすれば回答できると伝えても、なかなか次に進めなかった。その場を仕切ろうとする気持ちが無意識にあるのかもしれない。聴力検査の結果は、両耳とも加齢による中度の難聴。結果を伝え、補聴器を勧めた。聴力は正常だと思っていると話していたのに、意外にも、使用してみると言い出した。心の底では、仕事中に聞きづらいことを認識していたようだ。その時までに、彼女の中で、私は信頼できる人になっていたようで、きつい物言いはなく普通の会話ができていた。ただ、補聴器の支払いは第三者が介入することになり、その相手との会話中、彼女の物言いは非常にきつかった。ちょっとでも疑問があると、そこを突いて相手を傷つけるような言葉を言わないと気が済まないようだ。
補聴器の装着日には、またも、これから伝えようとすることに関する質問が始まった。まずは、電池のシールを剥がして5分以上置いておかないといけないのに、別の質問をしてきて、なかなか行えない。やっとシールを剥がしても、すぐに補聴器に入れようとする。待つように伝えると、「私に電池を入れさせたくないんだね」と嫌味を言う始末。ようやく電池を入れて、ひと通りの初期設定を行い、補聴器を通して私の声を聴いてもらった。補聴器を装着してから、彼女の質問がぱたりと止み、「私の声はどうですか?」と聞いても何も返事がない。「何か話しても構いませんよ」と繰り返し言って、やっと普通の声の大きさで「とても不思議」とだけ話した。それからの10分ほどはとても快適に時間が過ぎた。
彼女の声の音量は今までの半分ほどとなり、話してくれることもほんのわずか。まるで、生まれたての赤ちゃんがずっと周囲の様子を見ているように、補聴器から入ってくる音に驚き聞き入っているのがよくわかった。その状態で、次の予約を取ってもらったのだが、応対したのは初日の受付スタッフだった。どうなることかと心配したのだが、彼女はとても優雅な物言いをして、受付スタッフと笑いながら予約日を決定して帰っていった。聴力は人間の話し方に大きく影響を与えることを実体験したケースだった。