シアトル駐在日誌
アメリカでの仕事や生活には、日本と違った苦労や喜び、発見が多いもの。日本からシアトルに駐在して働く人たちに、そんな日常や裏話をつづってもらうリレー連載。
取材・文:磯野愛
#29 島津 修平 ■兵庫県出身。アイラブ寿司オン・レイク・ベルビューでゼネラル・マネジャー、寿司調理長として勤務する。日本で映画やTVドラマさながらの厳しい修行の世界を生き抜いてきた根っからの寿司職人。初対面の客であっても、味の嗜好を含め、店でどういう時間を過ごしたいのかを短時間で察知できるコミュニケーションの達人でもある。
東京での修業時代
中学を卒業してすぐに寿司の道に入りました。親には塾や習い事にいくつも通わせてもらったのですが、反抗期だったせいか当時はとにかく家を出たくて仕方がありませんでした。通っていた中学校に届いた就職案内の最初のページに載っていたのが、銀座にある老舗の寿司屋。父親と一緒に面接に赴き、そこで食べさせてもらった寿司がとてもおいしくて……。「こんな寿司をいつも食べられて、しかも給料までもらえるなんて!」と、15歳の私は小躍りしてすぐに就職を決めてしまいました。その甘い考えはすぐに吹っ飛びましたけれど(笑)。
数ある店舗の中で最初に配属になったのは大手町店。仕込みの始まる朝5時から閉店時間の夜10時までの勤務です。寮に戻ってからも、店から持ち帰らせてもらったシャリと、海苔に見立てた新聞紙、キュウリ代わりの使い古した割り箸で巻き寿司の練習に明け暮れました。当時の給料は手取り4万7,000円で、このうち3万円は財形貯蓄に回していたため、手元に残るのは2万円弱。それでも、食事や光熱費、布団交換まで生活の全ての面倒を見てもらえる寮で暮らしていましたし、売上目標を達成すると「大入り」をいただくこともありましたので、当時の私には十分なお金でした。修業は厳しく、最初は30人いた同期も1年後には10人に。「小僧(こぞう)!」を脱して、先輩方からきちんと認めていただけるまでは丸2年かかりました。
大手町店は、偶然にも父親が勤務する企業のビルの真隣にありました。バブル崩壊直後の90年代半ば、仕事の節目にオフィスで寿司の出前を取る風習はまだ残っており、仕事納めの日は寿司屋にとって1年で最も稼げる日。もっぱら出前担当だった私は、その日も幾多の企業から注文をもらった15万円分の寿司桶を抱えて出前に向かいました。しかし、大手町の交差点で台車が溝にはまってしまい、寿司を全てひっくり返してしまったんです。あまりの出来事に頭が真っ白になりました。罵声を浴びる覚悟で店に戻ってみると、怒る人は誰ひとりとしていません。それどころか「急いですぐに作り直すぞ」と言って、店のみんなで私の失敗を補ってくれました。数日後、寮の先輩に食事に連れ出してもらった時には、「店のみんなは、これまでのおまえの頑張りを見てきた。だからこそ、こんなことでくじけてもらっては困ると思って協力したんだ。今が踏ん張り時だぞ」と、励ましの言葉をかけられました。それをきっかけに、この道で生きていく覚悟が決まりました。両親は今からでも遅くはないと、寮に高校の入学案内パンフレットを送り続けてくれていたんですけれどね。実家には3年帰りませんでした。
アメリカで寿司を握る
板前として、そして社会人として大切なことを学ばせてもらった4年の修業を経て、独立する先輩に付いて新宿にオープンした寿司店に移りました。カウンター13席のみの小さな店で、親方からは仕入れ、接客、経理などの事務作業に至るまで、いろいろなことを教わりました。飲食業界全体が厳しい状況に置かれていましたし、また回転寿司の台頭により、街の寿司屋がどんどん潰れていく中で、自分の店を持つためには寿司以外にも幅広い知識が必要だと感じていた私は、日本料理屋やフグ屋などでも修業を重ねました。
日本での最後の勤務地となったのは、世田谷区経堂にある寿司店。社長から仕入れ用の現金を渡され、市場に出向いては仲卸さんとやり取りする日々。交渉の面白さや対面でのコミュケーションの大切さは、その時に学びました。若い衆の給与分も含め、店の経営を成り立たせるには、自ら仕入れた魚を売り切らなくてはなりません。1日15時間以上の勤務が当たり前で、休みも週に1回だけでしたが、この店での経験は独立に向けた最高のシミュレーションとなりました。
そろそろ独立しようと具体的に考えていた矢先、来店していたカリフォルニア州ナパバレーにワイナリーを持つ日本人オーナーとのご縁から、ナパバレーに新しくオープンする「自社ワインに合う和食」がコンセプトの店で寿司職人として働くチャンスに恵まれました。2016年のことです。アメリカ人の舌に合わせるのではなく、日本人が満足するクオリティーの和食を出したいというのがオーナーの要望でした。アメリカに来て気が付いたことですが、日本ではやはり、漁師さんから運送屋さん、仲卸さんと、サプライチェーンに携わる方々は共通して食材や鮮度に対する意識がとても高い。アメリカでは正直、クオリティー管理の難しさを感じましたね。店のスタッフは全員日本人でしたので、英語はほぼゼロ。接客は笑顔と情熱だけでなんとかやり切りました。おかげさまでお店も成功し、2年が過ぎた頃、アイ・ラブ・スシ・オン・レイク・ベルビューの横山義久前オーナーとのご縁で川崎博之現オーナーから熱心なオファーをいただき、2018年に現在の店に移りました。
最高のおもてなしをするために
アイ・ラブ・スシ・オン・レイク・ベルビューでは寿司を握ると同時に、店舗全体のマネジメントも担当しています。ベルビューは街の規模がちょうど良く、豊かな自然にあふれ、日本人も多い。抜群に住み心地の良いところです。ナパバレーに比べて新鮮な食材も手に入りやすく、サプライヤーさんに対していろいろと融通も利きます。お客さまの寿司や魚介に関する知識も豊富。アジア系以外の地元の方が、仕事終わりに日本酒を飲みながら寿司をさくっと食べて帰っていく姿には、寿司文化が根付いているんだなと驚かされます。
カウンターを挟み、おまかせで寿司を握るときは、何かストーリーを作ってあげたいという気持ちで臨んでいます。たとえば、一連のストーリーの中で最大の山場をどこに作るか、満足度を下げることのないままストーリーをうまく着地させる、といったことに気を付けています。目にもおいしい寿司を提供すべく、見栄えにもこだわります。お客さまの反応が全てを物語ってくれるので、他のスタッフにも良い刺激になっていると信じています。
これまでは、自分のファンを増やすために、ひたすらやってきたところがあります。しかし、マネジメントを預かる以上、店全体の底上げに貢献することが自分の務めだと感じています。寿司職人だけでなくホールで働くメンバーも含めて、店はチームで動いています。
湯のみ茶碗の傾き加減で残りの量を察知したり、板前との会話の流れからおしぼりを交換するタイミングに気が付いたり、細やかな気配りとコミュニケーションでお客さまに喜んでいただけることが大事。チーム一丸となって、これまで以上に努力していきたいと思います。シアトル界隈でこんなに日本人シェフがたくさん働いている店はないでしょう。寿司=ロールだとは思って欲しくないので、握り寿司を今まで以上に広めていきたいですね。
寿司職人という仕事は、うまい寿司を握っていればそれで良いという仕事ではありませんし、またそれが立派な店でもありません。来店の瞬間からサービス、会話、コミュニケーションなど店で体験した全てを素晴らしいと感じてもらうことで、初めて良い店と言えるのではないでしょうか。アイ・ラブ・スシ・オン・レイク・ベルビューを街いちばんの店にすること、それが今の目標です。そして、日本の伝統と責任ある仕事をしっかりやり遂げること。現在は新型コロナウイルスの影響で営業縮小を余儀なくされていますが、州の段階的な緩和政策により元の状態で営業できるようになる日はそう遠くないでしょう。その時に、お客さまのために何ができるのか。最高のおもてなしを実現できるように、しっかりと準備をしていきたいと思います。