現在でも、ジャクソン・ストリートとメイン・ストリートに挟まれた一角に、日本町の面影を残す商店街がある。日本の雑貨や工芸品を並べるKOBO、居酒屋かなめ、まねきレストラン、パナマ・カフェなどがあるブロックだ。東側の住宅地エリアへ行けば、日系文化を伝えるJCCCW(Japanese Cultural Community Center on Washington)やシアトル日本語学校、ナーシングホームであるシアトルKEIRO、日本のお寺などがある。
日本館シアター
(Nippon Kan Theater | 628 S Washington St, Seattle)
アジア人差別が根強かった当時、日本人は白人向けシアターへの入場が制限されていた。そこで、日本人が舞台や音楽を楽しむために開館されたのが、日本館シアター。 日本人会や政治集会などの集会所としても使われ、日系コミュニティの中心的役割を果たした。日系人以外にも開放されるようになり、地元のイベントや日本からの興行などさまざまな催し物で賑わいを見せたそう。現在は、国の歴史登録材に指定されている。
KOBO at HIGO(旧・ヒゴ バラエティーストア)
Kobo at Higo | 602 S Jackson St, Seattle |
☎206- 381-3000
1909年、肥後出身の村上三蔵一家がウェラー・ストリートに開店し、1932年にジャクソン・ストリートに移転した日用品ストア「ヒゴ・バラエティストア」。強制収容の際には立ち退きを余儀なくされたが、同建物に店を持つユダヤ人友人の協力もあり、店内の商品や所持品は無事だったという。戦後も三蔵氏の娘二人によって経営されていたが、2003年に閉店。しかし、その翌年にビルを譲り受けた三蔵氏の甥にあたるポール・ムラカミ氏の声で、同ビル内に新しい日系店舗が呼び込まれることになった。その一つが、Kobo at Higo。店内には、日本から買い取った民芸品や地元アーティストによる作品が販売されているほか、かつてヒゴ店内にあった収納棚や日用品、強制収容時に実際に村上一家が持って行ったというトランクが大切に保管・展示されている。
パナマホテル
Panama Hotel Tea & Coffee House | 605 S Main St, Seattle |
☎206-223-9242
1910年、日系建築家サブロー・オザサ氏によって建てられ、日本からの移民や来訪者のための廉価ホテルとして使われた。1985年、ジャン・ジョンソン氏によって買い取られ、現在もホテルとして利用されている。強制収容の際に日系人達が地下に残していった荷物が戦後になって発見され、当ホテル地下に保存されている。残された荷物は、一階にあるパナマ・カフェ内のガラス床から見ることができる。地下には「橋立湯」という銭湯もあり、湯船やロッカー室が当時のまま残されている。
パナマホテルは、戦時中の日系人少女と中国系少年との初恋を描いたベストセラー小説、「あの日、パナマホテルで(原題:Hotel on the Corner of Bitter and Sweet)」の舞台として知られる。
まねきレストラン
Maneki | 304 6th Ave S, Seattle |
☎206-622-2631
1904年、畳のお座敷で食事を楽しめる寿司屋としてオープンした老舗レストラン。戦前までは、日本の古城をイメージした白い外壁とお寺のような門で客を迎え、週末には500人以上が訪れる盛況ぶりだった。戦後、強制収容キャンプから戻ってきたオーナーが、戦時中に朽ちていた外壁を修繕して営業を再開。現在まで100年以上続いている。寿司ロールやチキン南蛮、お膳などの日本料理が楽しめる。
取材インターン生紹介
松崎 慧(まつざき めぐみ)
早稲田大学国際教養学部3年。ワシントン大学で1年間の留学中に、ソイソースと北米報知3カ月間のインターンを行う。シアトル在住経験のある父親の影響で、シアトルの日系移民の歴史に興味を持つ。
取材を通して
アメリカ合衆国は移民の国だ。シアトル建設の際には、先住民族スクアミシュ族を強制移住させた上で入植がはじまった。一方で、欧州系移民とほぼ同時期に入ってきた中華系移民、そして日系移民、またアメリカ統治後の1920年代から入り始めたフィリピン系移民は、常に人種的な差別を受けた。インターナショナルディストリクト周辺にアジア系移民や黒人住民が集まっていた背景には、彼らが北部の白人居住エリアか排除されてきた事情がある。今回の取材で、肩を寄せ合って暮らしていた戦前の彼らの様子が見えてきた。同時に、インターナショナル・ディストリクトの歴史を風化させず受け継いでいく責任を自負している人々にも出会った。世界には様々な人種や民族があって、そのどれも平等で差別されてはならない。日本で暮らしていた頃の私があまり意識することのなかったこの精神を、今回の取材でこれまでになく強く感じた。