ジュンコ・グッドイヤーさん
CSSホールディングス・グループ共同創設者、
関西学院大学ジェネラティビティ研究センター客員研究員
テキサス州で経営コンサルティング会社を経営するジュンコ・グッドイヤーさん。日米通算25年以上にわたり企業経営を行い、アスリートのセカンドキャリア支援をはじめ、教育・文化・マーケティング分野など、さまざまな事業を展開してきました。パワフルに人生を切り開きキャリアを築いてきた一方で、その裏側には想像を超える波乱万丈な人生がありました。
取材・文:三輪朝子 写真:本人提供
ジュンコ・グッドイヤー■青山学院大学卒業。大学在学中より舞台や映像関連の事業に携わり、宝塚歌劇団の海外公演事業を機に、プロデューサーに転身。以後独立し、文化・教育・出版・スポーツ分野を横断する事業を手がけながら、日米で複数企業を25年以上にわたり展開。2014年には日本の伝統芸能「能楽」を題材にした近代オペラをシアトルで製作総指揮し、高い評価を受ける。現在、テキサス州在住。弁護士らと共に立ち上げた戦略的経営コンサルティング・ファームCSSホールディングス・グループの創業メンバーとして活動中。関西学院大学ジェネラティビティ研究センター客員研究員。また自身の離婚をきっかけに、同じように離婚や孤立に悩む在米日本人女性への支援活動をライフワークとしている。
CSS Holdings Group, LLC
働くことも、生きることも、もっと自由に。
主に女性たちを支援するためのライフワークページ。モラハラや異国での離婚に悩む女性たちの支援プログラムも提供している。www.junkogoodyear.com
テキサスで参画している女性起業家団体「LEAD830」のメンバーと。招待制で、功績が認められた人のみが入会できる
ラスベガスで開催された展示会「SupplySide」(2025年10月)でサポートした北海道庁のブース
ダラスの「侍コレクション」にて、代表ディベロッパーのガブリエルさんの前で能を披露(2024年11月)
入退院を繰り返した幼少時代
神奈川県生まれ、東京育ち。幼少期は重度のぜんそくで入退院を繰り返し、医師に「10歳まで生きられない」と告げられたこともあった。命の危機を経験するたび「今夜が山」と言われ、枕元で泣く母の姿を今でも鮮明に覚えている。病棟で仲良くなった友達の死にも向き合い、幼い頃から、命には限りがあるという感覚を強く抱いてきたという。小学校は半分ほどしか通っていない。
母方の祖母からは大きな影響を受けた。明治生まれの祖母は、現在の中国に位置する天津租界 で11年間暮らし、3カ国語を話した。戦時下という極めて混沌とした時代の中でもグローバルな視野を持ち続けた祖母。そんな祖母から聞く話は刺激的で、「自分の置かれた場所の外にはもっと大きな世界がある」と心を躍らせたそうだ。世界を見てみたい——ジュンコさんの海外へ行きたいという強烈なモチベーションはそこから育まれていった。
天津で算命学を学んだ祖母は、戦後、政治家を相手に運命鑑定師をしていた。人は底知れぬ強さを持つ一方で、国をリードする政治家でさえ不安や迷いを抱えている。そんな人間の本質を祖母は教えてくれた。祖母の言葉で特に印象に残っているものがある。「運命鑑定師は未来を決める人ではなく、その人の生き方を肯定する存在」。そう教えられて育ったことが、逆境の中でも自分の人生を信じ直す支えになった。失敗を受け止め、何度でもはい上がろうとする姿勢や、人を否定せず寄り添う在り方には、祖母の影響が色濃く表れている。
中学生になる頃には体も回復し、肺を鍛えるため吹奏楽部に所属した。そこで出会った恩師もまた、人生に大きな影響を与えた一人だ。他校で輝かしい実績を数多く残してきたその恩師は、着任早々、部員数も実績も乏しい吹奏楽部員を前に「3年で入賞、5年で金賞を獲る」と宣言したという。誰も想像すらできないような高い目標。その目標を、一点の迷いもなく掲げ、一切の反論を受け付けない姿勢を貫いた。全員が圧倒され、ただひたすら練習に打ち込む日々が始まった。その結果、中学2年の時に初エントリーしたコンクールで参加賞、翌年には銅賞、さらにその翌年には金賞を獲得するという快挙を成し遂げた。この出来事を通して、迷いのない決意が不可能を可能にする力を持つことを学んだ。恩師はカリスマ的な指導者である一方、生徒の前で泣いたり怒鳴ったりと、「人間的にはダメダメで、できた人という感じではまったくなかったです」とジュンコさん。しかし、「とにかく一点集中型の情熱と、決めたらやるという姿勢を見せてくれた人でした」と振り返る。「人間は不完全でも、どこかで完全」——行動によって道が開けるということを、この先生から教えられたという。
幼少期に形づくられた死生観、祖母から学んだ人間の弱さと世界の大きさ、恩師の圧倒的な決意と情熱、不完全の中にある完全さの美しさ。これらは15歳までにジュンコさんの心の核に深く根を下ろしていたという。その内面の成熟ぶりに思わず驚かされるが、「小さい時に3回くらい死にかけているので早く老けたのかも」と茶目っ気たっぷりに笑う。
浮き輪に乗って流れていた20代、
起業家として奔走した30代
早く自立したい一心で青山学院大学の夜学に進学。昼間は外資系企業で働き、英語力と実務経験を積んだ。職場で「世界を見たい」という幼い頃からの夢を話したことをきっかけに、海外での撮影を多く扱う広告代理店を紹介され、作品制作のキャリアが始まる。その後、宝塚歌劇団の香港公演にスタッフとして携わったことを機に、プロデューサーへと転身。どちらも20代ではそうそう巡ってこないチャンスだが、ジュンコさんは当時を「浮き輪に乗り、流さながら運命に身を任せ、巡って来る仕事にとにかく没頭した。」と振り返る。先を案じず、過去に縛られず、いま目の前にあることに集中して真摯に取り組む。幼い頃から培われてきたマインドセットが社会で実践されたというべきか。その時々の出会いや縁を大切にし、努力をひたむきに続けていたであろうことは想像に難くない。
30代に入ると、社会課題を起点に事業を構想し、実業家としての活動の幅を広げていく。日本初の「ピラティス指導者資格」を、アメリカの大学と連携して国内展開したほか、引退後のアスリートのセカンドキャリア構築を支援する事業などを展開した。五輪のような舞台を目指し人生の全てを捧げてきたアスリートの多くが、引退後に人生を支えるスキルを十分に持ち合わせていない現状を知り、何とか力になれないかと考えたのだ。きっかけは当時のビジネスパートナーであるソウル五輪シンクロナイズドスイミング銅メダリストの田中ウルヴェ京さん。彼女の経験をもとに、アスリートが引退後に活動できる土壌づくりに取り組んだ。
スポーツをエンターテイメント化する事業として、アスリートをショーにキャスティングしたり、メンタルトレーニングの重要性を説く啓蒙活動や講演活動の機会を創出したりした。元選手たちがピラティス・インストラクター資格を取得し、セカンドキャリアにつなげられるよう、道筋づくりにも奔走した。これまでの経験を生かし社会に還元し貢献する。多くのアスリートが救われたことだろう。
流れに身を任せていた20代から、社会性と事業性を両立する企業を運営するまでに成長した30代。だが、結婚と出産を機に、思いがけない苦悩の15年が始まるとはこの時は想像もしていなかった。
結婚・出産・渡米、人生のどん底を経験した15年
35歳の時に東京で知り合ったアメリカ人と結婚。翌年に長女を出産し、2010年、39歳で夫の転勤により生活の拠点をアメリカに移した。当時の夫はアメリカ軍の諜報部員で、任務の性質上、14年間の結婚生活で17回もの引っ越しを余儀なくされた。任務によってはわずか3カ月で次の場所に移動することも。引っ越し先でも、家族のことや夫の職業に関して自由に話すことができず、精神的な拘束や不便を強いられた。さらにつらかったのは、渡米翌年に東日本大震災が発生した際、ジュンコさん一人ですら日本へ帰国することが許されなかったことだ。日米を行き来しながら継続するつもりだった事業も、やむなく手放すことに。日本に帰れない状況は3年間続いた。波乱まみれの当時の結婚生活を「全てが国のミッション次第。アメリカ合衆国と結婚しているような感じだった」と振り返る。さらに追い打ちをかけるように、2011年夏、実の弟が35歳の若さで急逝。その後まもなく、母の認知症が発覚した。慣れない土地で引っ越しを繰り返しながら育児と仕事を両立させようにも、想定外の出来事が次々と起こり、全てが空回りしているようだった。
そうした困難のさなかに身を置いたのが、2013年から7年間を生活の拠点としたワシントン州である。ジュンコさんにとって、温かい記憶が数多く残る場所だ。娘2人は現地で就学し友達を作り、ジュンコさん自身もママ友のコミュニティーに入り、親子で多くの時間を紡いだ。2013年、当時ワシントン大学に1年間研究員として在籍していた現関西学院大学名誉教授の井垣伸子さんと知り合ったことをきっかけに、翌年彼女と共に日本の能楽とコンテンポラリー・オペラをシアトルのACTシアター(A Contemporary Theatre)で上演。作品を製作総指揮し、高い評価を得た。その翌年には、キットサップ・チルドレンズ・ミュージカルシアターの理事にも就任。日本人コミュニティーだけでなく、現地のさまざまな活動に携わったシアトルは、今でもジュンコさんにとって第2の故郷のような存在だ。
カンザスの投資チームと日本からのビジターとのミーティング。右は井垣伸子さん(2025年8月)
だがその一方で、家族にさえ行き先を明かせない場所へ派遣されることの多かった夫は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の影響で人格が少しずつ変わっていった。夫の変化に戸惑いながらも我慢を続け、育児と仕事の両立に奮闘したが、度重なる引っ越しも重なり心身は確実に疲弊していった。テキサス州に拠点を移して50歳を迎える頃には更年期による不調も加わり、精神的、肉体的なストレスは限界に達した。体調を崩し入退院を繰り返す中で、夫の嫌がらせによる不当な精神病院への入院も経験した。極度のストレスから適応障害と診断されたジュンコさんのもとに、まもなく裁判所から離婚手続き開始の通知が届く。入院中に、夫が離婚を申請していたのだ。まさに青天の霹靂。
しかも水面下で夫が離婚訴訟を前に共同名義の銀行口座を解約していたことで、経済的な困難にも直面。精神的な負担や親権をめぐる問題などが重なり、厳しい時期が続いた。さらに、日本に帰国すると聞いていた当時のビジネスパートナーが帰国せず、事実と異なる情報が周囲に伝えられたことで事業面で大きな混乱が生じ、離婚後の生活を一層困難なものにした。
精神的に大きく傷ついていたこの時期、頼った先の教会で牧師から紹介された男性と再婚することに。しかし、その男性が深刻な精神的不調を抱えていたことを後になって知り、わずか数カ月で人生は再び急降下。男性による感情の制御がきかない言動が続き、命の危険を現実的に感じる事態にまで発展したことから、結婚自体を無効にする手続きを取った。それは、人生を取り戻す決断だった。
日本の一次産業を海外市場に紹介・支援する活動も、ジュンコさんのミッションのひとつ
シアトルのACT Theatreで行った能プロジェクト。武田宗典さん、井垣伸子さんと
「私は屈しない」——自分との誓い
この時の経験をジュンコさんは「暗闇の中でしか見えない、かすかな光があるものだ」と振り返る。すぐに誰かに頼ったからバチが当たったのかもしれない。しかしこれを人生の汚点にしてはいけない。何があっても、もう一度立ち上がるしかない。本当の意味での自分を生きるために、自問を重ねた。
そんな中、生活のために地元の非営利団体が運営する起業家支援組織のスタッフに応募した。ジュンコさんの経歴に気づいた同団体の代表は、最終面接の場で「君はスタッフには向かない。もう一度自分で事業をすべきだ」と告げた。「全身全霊で応援するから」と背中を押され、再び事業を興す決意をする。あの日から、約3年——。現在はテキサス州で国際ビジネスのコンサルティングの会社を経営している。弁護士やマーケティングのプロを束ね、行政案件や州外からの移転を検討する企業への戦略的経営支援などを請け負っている。
現在、一番大きなクライアントは東京都だ。東京とテキサスが地域間経済協力協定を締結している関係もあり、最近では日本に行く機会も増えている。
日本での講演の様子
次世代継承教育研究の一環として関わっているプリスクールにて
人生のどん底から瞬く間に目覚ましい大逆転を果たしたジュンコさん。その不屈の精神はどこからくるのか。「それは、祖母のおかげ、恩師のおかげ、死にかけたおかげ、虐待されたおかげ、精神病院を体験したおかげ、殺されかけたおかげ」と静かに言い切る。逆境につぐ逆境。たいていの人ならば一刻も早く忘れたい経験だろう。だが、そうした体験を重ねる中で、同じような苦しみを抱える女性が数多くいることを知り、アメリカ社会が抱える深刻な課題にも向き合うようになった。PTSDに苦しむ軍関係者とその妻たち、虐待の被害に遭う女性、社会とのつながりを失い孤立するシングルマザー……。人は誰もが、強さと弱さの間で生きている。自らの人生を語ることで、今まさに悩みや苦しみの中にいる人の力になりたい——そう願っている。
娘たちと、シアトル—ベインブリッジ島間をフェリーで。2023年帰郷時の1枚
離婚訴訟の最中、レストランで娘たちの分だけ食事を頼んだことがあった。その様子を見ていたウェイトレスが、そっとケーキとコーヒーを置いた。「大変そうだね。これ、食べて」。その一言と優しさに、胸がいっぱいになった。「誰かがちゃんと見てくれている。そのことに気づける人でいたいし、今度は私が手を差し伸べたい」。そう語る言葉の奥には、数えきれない経験が積み重なっているように感じられた。
そんなジュンコさんの左薬指には、自分が自分に贈ったダイヤの原石の指輪が光っている。内側には「Unbreakable」の刻印。たとえ全てを失っても、自分の価値まで失うことはない。決して屈しない——自分への誓いの証だ。
被害者意識を抱えたまま生きるのか、それとも、その経験を糧に前に進むのか。「私は、迷わず後者を選びたい」とジュンコさん。この世で起こることは全てギフトだ。良いことも、悪いことも。「私は絶対に人生を雑に生きたくない」。その言葉は、人生の指針を映しているかのようにも感じられた。
今後のミッションは「次世代への希望の継承」。特にフォーカスしたいのは世代を支える女性たちだ。なかでも、アメリカで離婚問題に苦しむ日本人女性を支え、元気づける活動に注力したいと考えている。
「あなたのこと、見てるよ」。声なき女性たちを取りこぼさない決意と未来への使命感が今日もジュンコさんを動かしている。


















