「インターナショナル・ディストリクトでアジア系文化遺産を守りたい」。ウィング・ルーク博物館を通して、コミュニティーを巻き込みながらメッセージを発信し続けるキャシー・チンさんは、このチャイナタウンを「ホーム」と呼び、愛してやまない。その思いはどこから来るのか、背景となるファミリー・ヒストリーを含めて話を聞きました。
取材:ブルース・ラトリッジ 翻訳:大井美紗子
家族をバラバラにした中国人排斥法
キャシーさんの家族は曾祖父母の代からシアトルで暮らしており、キャシーさん自身もビーコン・ヒルで生まれ育った。マウント・べーカーにあるフランクリン高校を卒業してからは、カリフォルニア大学バークレー校へ進学して美術史を学んでいたが、毎年、夏休みにはシアトルの実家に帰っていたそうだ。「家が大好きなんです」と、キャシーさんは笑う。シアトルにいる間は、さまざまな博物館でインターンとして働き、ウィング・ルーク博物館も、そのうちのひとつだった。90年代初頭、大学3年生のキャシーさんは、同館でのインターンの際に衝撃の事実を知る。祖母が歴史の語り部として、同館の展示に協力していたことを知ったのだ。口述記録に携わったことなど、祖母の口から聞いたことはない。全く、寝耳に水だった。
祖母が語っていたのは、キャシーさんの父方の曾祖父母についてだ。1882年から1943年まで施行されていた中国人排斥法の影響で、中国人男性は妻をアメリカに呼んで家庭を築くことが許されなかった。そのため、アメリカへ出稼ぎのために渡った中国人男性は、中国へ戻って婚姻を結び、再び仕事のためにアメリカへ戻るというケースが多く、キャシーさんの曾祖父母も例外ではなかった。「曾祖母は、結婚直後にアメリカへ戻ってしまった夫の代わりに雄鶏の人形を抱いて、寂しさをしのいでいたんですって。そんな家族の歴史を、ウィング・ルーク博物館の展示から知りました」
母方は、キャシーさんの祖父母の代でシアトルへ移住した。「でも実は、母方は曾祖父とその父親もシアトルへ出稼ぎに来ていて、中国人排斥法のために家族は中国に残していたんです。なので、母方では私は『3世』ですが、もし中国人排斥法がなくて欧州系移民と同様にシアトルで家庭を築くことが許されていたら、私は『5世』になっていました」。口述記録によって自分の生い立ちがよくわかり、中華系アメリカ人としての立ち位置が明確になったキャシーさんは、同館勤務を決意。バークレーからシアトルへ戻って来た。
「19世紀末の排斥法の余波が未だに現代のアメリカ人家庭に及んでいるなんて、きっとみんな思いもよらないでしょうね。(西部開拓の時代に)中国からも大勢の移民がアメリカに渡って来ましたが、その多くが国外へ追いやられました。もしそんなことが起こらなかったら、現在のアメリカの人種構成は、今と全く違うものになっていたはずです。当時は、誰がアメリカへ来られて誰が来られないか、誰がアメリカ人で誰がそうじゃないか、人種というレンズを通して決められてしまったんですね」
中国人排斥法は1943年に廃止されたが、1882年の施行から60年間にわたってワシントン州の中華系移民の生活に大きな影響を及ぼした。キャシーさんは、現在のイスラム系移民に対するアメリカの状況が、1882年の中華系移民に対するそれと酷似していると警告する。「排斥法は、いきなり制定されたわけではありません。制定に至るまでには、中華系を排除しようという風潮があり、それを渇望する世論があった。人間を差別する排斥法が、本来は個々の胸に隠されているべきだった感情を、大っぴらにしてもいいんだ、と人々に思わせた。禁断の扉を開けてしまったんです」。排斥法が施行されてから4年後の1886年に、シアトルでは大規模な反中国人暴動が起きた。中華系移民を排除しようと暴徒化した欧州系移民が当時のチャイナタウンに押し寄せて、中国人を船に押し込み、街からの立ち退きを強要したのだ。その暴動を機に多くの中華系移民はカリフォルニア州や本国へ逃げることになり、シアトルの中華系移民が激減。1943年までその人口が戻ることはなかった。
仲間の遺志を継ぐウィング・ルーク博物館
インターナショナル・ディストリクトでは今、別の「立ち退き」が起きている。都市部の再開発と地価高騰で店舗や住民たちが郊外へ追いやられ、長くこの地に根付いてきたアジア文化が衰退の危機にあるのだ。その危機を食い止めるべく、ウィング・ルーク博物館は力を尽くしている。
同館が設立されたのは、公民権運動が盛んな1967年。設立には多くの活動家が力を貸したという。たとえば、インターナショナル・ディストリクトの非営利団体、インターリム創設者で『ボブおじさん』として親しまれたボブ・サントス氏。そして、博物館命名の由来になったウィング・ルーク氏は、有色人種としては初のシアトル市議で、文化財の保護に熱心な活動家だった。2015年7月、インターナショナル・ディストリクトの夜警中、銃撃戦に巻き込まれて亡くなったドニー・チン氏もやはり、サポートしてくれたひとりだ。「彼らは中華系の文化、アイデンティティー、歴史を見守ってくれていた仲間です。その遺志を継ぎ、同志たちとのつながりを作って支援すること――それがウィング・ルーク博物館の使命です」
インターナショナル・ディストリクトには、宇和島屋、工房アット・ヒゴ、モモといった日系店舗、デンショウやフレンズ・オブ・ジャパンタウンなど日系組織も数多く存在する。「こうしたインターナショナル・ディストリクトで長年にわたって根付いてきた民族グループの店舗や組織が、インターナショナル・ディストリクトの価値を高めています。人はコミュニティーや文化とのつながりを求めるもの。本格的な中華料理を食べにチャイナタウンへ人が集まるのと同じように、シアトルを形づくるアジア人の民族性をこの目で見たいと、多くの人がウィング・ルーク博物館を訪れてくれます。民族的なダイバーシティはシアトルが誇るべきものです。これからも保護、支援を続けていかなければいけません」
インターナショナル・ディストリクトのコミュニティーは、家族経営の小規模店舗が中心。それだけに地価高騰や再開発による影響を受けやすく、保護が必要だとキャシーさんは話す。「何かしらの保護をしなければ、長年にわたって家族経営を続けてきた店舗も立ち退きを迫られます。インターナショナル・ディストリクトの歴史的な民族コミュニティーを受け継ぐためにも、保護活動が必要です」。ウィング・ルーク博物館の展示のほとんどは、地区内のコミュニティーを巻き込むものだ。「ウィング・ルーク博物館もコミュニティーの一部ですから。切り離して考えることはできないんです」ウィング・ルーク博物館を訪れると、まるで実際に地域の住民と会って、彼らの人柄に触れるような気分になれる。「人々の生の声が展示されているからでしょう」と、キャシーさん。押し入れに大切にしまい込まれていた写真や
思い出の品々が、その人物の歴史を物語る。同館では学芸員がいない代わりに、コミュニティーの住人が展示の計画や運営に関わる。同館の展示が評価されるのは、コミュニティーに根差した博物館として、地域住民が自分自身のことを展示しているからだ。
日系人の歴史をたどる、日本町マップ
今年2月10日、旧正月を祝う展示であふれる同館で、毎年恒例の獅子舞パフォーマンスが披露された。その翌日、2016年10月から続いていた特別展・第3期「ブルース・リーのある1日」が終了。現在は、ブルース・リーのシアトル生活に焦点を当てた第4期「ドラゴンここにあり」を展示中だ。「彼のシアトル生活は、ファースト・ヒルにあったレストラン、ルビー・チョウズから始まりました。ウエーターとして働きながらチャイナタウンで多くの時間を過ごし、ワシントン湖のほとりで思索にふけり、ワシントン大学とユニバーシティー・ディストリクトで哲学と武術を学んでいたんです。彼もシアトルに生きたひとりの人間だったのだと、親しみを覚えてもらえるような展示に
なっているはずです。ブルース・リーは偉大なパイオニアであり、イノベーターでした。彼をそこまで育てたのがシアトルという街であり、この街は今でもそんな特別な力を秘めています。今回の展示は、ブルース・リーについての新たな解釈になっていると思います」
2018年は、ウィング・ルーク博物館にとって記念すべき年でもある。アメリカ内務長官とワシントン州の全代議員団によって国立公園局の提携エリアに認可されてから、今年でちょうど5年になるのだ。5年前の出来事をキャシーさんは感慨深げに振り返る。「仲間のひとりが、満面の笑みで言ったんです。『これで僕らは、マウント・レーニアみたいなもんだ』って。国立公園に指定されたということは、アメリカ史の一部と認められたということ。この国唯一のアジア博物館が、アジア系市民の歴史が、アメリカ史の一部だと公認されたんだと考えると、胸が熱くなりました」
同館は、日系アメリカ人の歴史をたどるトレイル作りにも携わる。国立公園局のプランナーから助言を得つつ、フレンズ・オブ・ジャパンタウンなどと共に、ここ1年行ってきた取り組みだ。パイオニア・スクエアや日本町を通り、セントラル・ディストリクトに至るトレイルでは、寄り道スポット42カ所を選定。昨夏にテスト・ハイキングを済ませ、地図付きパンフレットも完成した。
多岐にわたって精力的な活動を続けるキャシーさん。いつでも帰れる「家」があるから頑張れるのだと話す。「私にとってのホームは、あくまでインターナショナル・ディストリクトのチャイナタウンです。自宅はビーコン・ヒルにあって、趣味のお菓子作りや編み物、読書、ハイキング、ランニングは自宅近くで行いますし、通っている教会も近所にあります。それでも、私が所属するコミュニティーは、私自身の文化が根ざすチャイナタウンなんです」
キャシーさんのように、住む場所は違ってもインターナショナル・ディストリクトを「ホーム」と呼ぶ人は大勢いる。週末になると、人々は買い物をしにチャイナタウンへ帰って来る。家族のイベントがあればここで食事をし、子どもにアジア系アメリカ人の歴史を教えたければウィング・ルーク博物館を訪れるのだ。彼らを「お帰りなさい」と出迎えられるよう、キャシーさんはいつでも博物館のドアを開けて待っている。
キャシー・チン(Cassie Chinn)■ウィング・ルーク博物館副理事長。曾祖父母の代からシアトルに住む中華系アメリカ人の家庭に生まれ育つ。カリフォルニア大学バークレー校で美術史を学んだ後、シアトルへUターンして1993年から同館に勤務。家族と共にビーコン・ヒル在住。
※本記事は英語でのインタビュー記事を元に日本語意訳したものです。オリジナルの英語インタビュー記事は姉妹紙『北米報知』のウェブサイトでご覧になれます。
719 S. King St., Seattle, WA 98104
☎206-623-5124
開館時間:火~日10am~5pm(第1木曜無料開館日~8pm) 定休:月
ウェブサイト
日本町の過去と現在をめぐるトレイル・マップが今年3月からウィング・ルーク博物館、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)、クロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園で配布されている。42件の寄り道スポットを網羅する地図やイラストを制作したのは、これまで移民コミュニティーの研究でスケッチを行ってきた中村有理沙さんだ。同ガイドには、そのスケッチも使われている。英語版に加え、日本語版も今年5月には配布予定。ウィング・ルーク博物館によるウォーキング・ツアーもある。詳細は上記ウェブサイトで確認を。