報道番組の顔として、エネルギッシュにニュースを届け続けるローリー・マツカワさん。シアトルのローカル局であるKING 5 では、35 年のキャリアを積んでいます。地域社会に貢献するさまざまな活動を含め、話を聞きました。
取材:ブルース・ラトリッジ 翻訳:宮川未葉
毎日、仕事で新しいことを学べる。
自分が得た情報を、視聴者に伝えたい
ミス・ティーンエイジからニュースキャスターへ
シアトルのテレビ・ニュースでおなじみ、ローリー・マツカワさんが報道の世界を志すようになったきっかけは、10代の頃、ミスコンテストへの参加を友人に勧められたことだった。見事に選ばれたローリーさんは、「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」としての活動の一環でアメリカ中をめぐることになる。行く先々でインタビューを受けているうちに、報道の仕事をやってみたい、この仕事は自分に向いていると思うようになった。当初は新聞記者を目指していたため、大学ではコミュニケーション学を専攻し、夏休みには出身地のハワイに2回戻って、日刊紙を発行するホノルル・アドバタイザー(現・ホノルル・スター・アドバタイザー)でインターンをした。その後にインターンをしたサンフランシスコのテレビ局、KPIXでは、ある人物から大きな影響を受ける。「ウェンディ・トクダというKPIXのニュースキャスターが私の面倒を見てくれました。取材にも付いて行くことができて、とても刺激になり、勇気付けられました」
就職活動では、このインターンシップ中に当時サンフランシスコで起きた地震について報道した自身の映像をまとめ、100社に送った。そのうち、良い返事が来たのは2社。「1社は大手新聞社のロサンゼルス・タイムズからでした。もう1社は、カリフォルニア州レディングのローカル・テレビ局。どちらも魅力的なポジションで、本当に悩みました。ジャーナリストを志す者なら誰だって、ロサンゼルス・タイムズで働きたいと思うでしょう?」。しかし、「テレビの仕事は、若くて体力があって道具一式を運べる時にするもの」と思ったローリーさんは、テレビ局に就職することを決めた。「まずテレビを先にやって、しわしわになって歯がなくなったら新聞記者になろうと(笑)。それ以来、ずっとテレビの仕事をしています」
報道の仕事は、何より面白そうだと選んだ仕事だった。毎日、仕事を通して新しいことを学べる。自分が得た情報を、視聴者に伝えたいと思った。1970年代のアメリカで、アジア系女性としてジャーナリズムの世界に飛び込んだローリーさんだが、ちょうど大学を卒業する頃は、前述のウェンディ・トクダ氏のほか、ロサンゼルスで活躍していたコニー・チャン氏、トリシャ・トヨタ氏など、手本となるアジア系女性ニュースキャスターが少数ながらテレビ界にいた。そんな尊敬すべき先駆者たちの背中を見ながら、キャリアをスタートさせることができた。「私と見た目が似ている人たちが、大都市でキャリアを築いている。私も見習いたいと思いました」と、ローリーさんは振り返る。最初の仕事はレポーターだった。仕事はとにかく何でもこなす時期。レポーターをして自分の映像を撮影し、その編集もしていた。プロデューサーの仕事もした。「11時台のニュースをプロデュースして、そのニュースキャスターも務めるんです。いろんなことが学べた素晴らしい経験でした」
シアトルに来たのは1980年。最初の3年間はシアトルのローカル局であるKOMOで働いていた。そして、1983年にKINGに移った。この6月で勤続35年になる。
コミュニティーのために力を合わせて
テレビで大活躍のローリーさんは、一方でコミュニティーにも多大な貢献を果たしている。そのひとつが、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会(AAJA)シアトル支部の設立だ。
AAJAはもともとロサンゼルスとサンフランシスコに支部があったが、大学時代の友人から、AAJAの支部をシアトルに作りたいと持ちかけられたのだ。AAJAは現在、21支部、会員1,700人以上の組織となっている。「AAJAの活動は、力を合わせてアジア系アメリカ人ジャーナリストの認知度を高め、業界にいる人々を支援すること。そのためには、プロとしての技能を向上させ、奨学金で支援すると共に、アジア系アメリカ人の問題がどう報道されているか監視する必要がある。設立当時は特に、それを痛感していました」
AAJAシアトル支部は、1985年にローリーさんら3人によって設立されたが、時を同じくして、日米自動車貿易摩擦が激化するデトロイトで、中国系アメリカ人男性が日本人と間違われて白人に撲殺される事件があった。「アジア系アメリカ人に関わる人種間の緊張が高まっていました。AAJAは、その真っただ中でニュース報道を監視していました。放送や新聞で人種差別的な中傷や不適切な言動があれば、そのニュース組織に対して批判を展開したのです。全国レベルで声を上げ始めました」。AAJAは幅広い支援ネットワークを通じ、さまざまな人種の若者に奨学金を提供してきた。「ノースウエスト・ジャーナリスト・オブ・カラー奨学金」は年間3~5人に支給され、非白人系の若者がジャーナリズムやコミュニケーションを学んでこの業界に入ることを奨励するものだ。シアトル支部は1986年から奨学金を支給しているので、これまでに10万ドル以上支給したことになる。「アジア系アメリカ人の親は子どもに、医師や弁護士、エンジニアになるようにと言いがちです。お願いだからジャーナリストになって、とは絶対に言いません。私たちは、ジャーナリストになりたい若者に希望を与えたいんです」
地域社会のためにみんなで力を合わせれば、
たくさんのことを成し遂げられる
ローリーさんは、これまで積極的にコミュニティー活動に携わり、団体役員を歴任してきた。「1980年代に私と一緒にキャスターを務めたマイク・ジェームズは、アジアン・カウンセリング・アンド・リファーラル・サービス(ACRS)の役員をしていました。彼から、『こういう団体があって、役員を探している。考えてみないか』と言われ、役員会に参加したのがきっかけです。地域組織の役員は、それが初めての体験でした」。以来、JACL(日系米国人市民同盟)シアトル支部、AAJAシアトル支部、YMCAグレーター・シアトルでも役員を務めた。ワシントン州日本文化会館(JCCCW)設立にも、ローリーさんが大きく貢献した。
当時、ワシントン州議会下院議員でソーシャルワーカーだったキップ・トクダ氏、そしてシアトル地方裁判所判事だったロン・マミヤ氏と共同設立した。「3人で集まって相談し、『ここに日本文化会館があったら最高だね』と話していました。最初は、どこにするか、どんな感じになるかはわかりませんでしたが、日系アメリカ人や日本出身の人々が集まって友好を深める場所にしようと思っていました」
JCCCW設立に必要な多大な資金をまかなうため、コミュニティーを巻き込んだ。多くの日系アメリカ人・日本人家族からの寄付金に加えて、ワシントン州商務省からの助成金も受けた。「キップが商務省を通じて州助成金を獲得しました。キップの口説き文句は、『このような友好は州にもいろいろなメリットがある』というものでした」。JCCCWはシアトル日本語学校のある場所に置かれることになった。米国本土で最古の日本語学校であり、100年以上にわたって、地域社会が集う場としての役割を果たしてきた。この場所に設立することには、大きな意義がある。2003年に開館したJCCCWは、今年で創立15周年を迎えた。「地域社会のためにみんなで力を合わせれば、たくさんのことを成し遂げられます。私はいつも家族や子どもたちに力を注いできましたが、今は日本文化に重点を置いています。自分の文化と伝統について知ることで、自分の基盤がしっかりする。これは私にとって、とても大事なこと。自分の家族のルーツがどこから来ているのか、息子に知ってもらいたいんです。JCCCWは、まさにぴったりの場所です」
日系人の強制収容を伝える
ジャーナリストとして成し遂げた最も思い入れのある仕事としてローリーさんが挙げるのが、昨年の日系人強制収容に関する番組だ。「第二次世界大戦時、大統領令9066号によって、米西海岸に住んでいた12万人の日本人と日系人が強制収容所に送られました。これは米国にとって、司法上の大きな危機でした。理由もなく、適正な手続きも取らずに、政府が罪のない市民を収容所に入れていたんです。昨年は大統領令9066号発令から75年目にあたる節目。大統領令が人々にどのような影響を与えたのかを探る5部構成の番組を制作しました」。番組名は、「Prisoners in Their Own Land(自国で捕虜となった人々)」。その第3部では、ほとんど知られていない日系人家族間の対立について扱った。
「軍隊に志願した日系人と、抵抗して法廷で異議を唱え、刑務所に送られた日系人と、どちらがアメリカ合衆国への愛国心が強かったのか。現在でもお互いに口を利かない家族がいるくらい、両者の間には深い溝があります」。第4部では、強制収容された人々に対する政府の謝罪と賠償を求めて、シアトルの人々がどのような努力をしたのかを取り上げた。補償を要求するのは政治的な大事業。実現するには議会が法律を制定しなければならない。「シアトルには事を起こす人、考える人、まとめる人
がいて、全米の運動の口火を切ることができました。彼らが先頭に立って議会に法案を可決させ、レーガン大統領が署名するに至ったのです」。最後となる第5部では、その体験が今どのように語られているかについて伝えた。「シアトルには素晴らしい手本がたくさん。記憶を風化させないように、視覚芸術、オペラ、詩の朗読などで強制収容の話を今に伝えています」
このほかに30分の特別番組も担当した。子どもの頃にミニドカ収容所で暮らした人たちとローリーさんが実際にミニドカに行く、という内容だ。そこでの生活はどんなものだったのか、戻ってみて今どう思うか、さまざまな話を聞いた。このような番組を制作したことはとても特別な体験だったとローリーさんは言う。「長年の間に撮りためた、日系人にまつわる映像やインタビューを、いつか大きなプロジェクトに使おうと、とにかく保存してありました。それが2017年になって、ついに実現したんです」。番組では、このようなことが再び起こることがあるのか、という疑問も投げかけられた。「起こる可能性はあります。注意や警戒を怠れば」
ローリー・マツカワ(Lori Matsukawa)■スタンフォード大学(学士)、ワシントン大学(修士)を主席で卒業。アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の生涯功績賞(2005年)、全米テレビ芸術科学アカデミーのノースウエスト支部でシルバー・サークル入り(2014年)など、数々の栄誉を受ける。アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会シアトル支部やワシントン州日本文化会館を設立するなど、活発なコミュニティー活動も展開。夫と共にベルビュー在住。成人した息子が1人いる。
JCCCW: Japanese Cultural and Community Center of W ashington
1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144
☎206-568-7114
2003年に設立された非営利団体。人々が集う場の提供、日本・日系の文化と伝統の共有、発展を目的としている。JCCCWの事業には、シアトル日本語学校、ノースウエスト日系博物館などがある。JCCCWの15周年を祝って今年3月に開催された「トモダチ・ガーラ」では、元駐米大使の藤﨑一郎氏とJPモルガン・チェース銀行ノースウエスト地区頭取のフィリス・J・キャンベル氏にトモダチ賞を授与した。