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War Bride 〜「戦争花嫁と呼ばれて」〜 タコマ日本人コミュニティー教会のみなさん

前列左からカーペンター万里さんクレッチフェルド喜和子さんラービー貴久子さん後列左がジェイルストフ貞子さん同右がジョンソン幸子さん幸子さんも戦争花嫁のひとり

敵国だったアメリカに、嫁いだ女性たち。シアトル周辺では、米軍基地に程近い南部、タコマ周辺に多く居住しました。タコマ日本人コミュニティー教会に通う皆さんに、結婚当時の話を聞くことができました。

取材・文:加藤瞳

よく頑張ってきたよね、私たち

「今まで、取材を受けたくなかったんです」
クレッチフェルド喜和子さん

1959年三沢基地にてチャールズさんと喜和子さんが24歳の時の写真

これまでも取材依頼はたびたびあったという喜和子さん。しかし、以前はとても応えられる心境にはなれなかったと明かす。「どうしても『戦争花嫁』という言葉を受け入れることができなかった」。日本では戦後から1950年代までは、「戦争花嫁」に関するスキャンダラスなマスコミ報道があり、「夜の商売をしていた女性」という偏見がつきまとっていた。「そういう目で見られてしまう不安がありました。もちろん、いろいろな人がいて、望まずにそうなってしまった人がいることもわかっているけれど、親に申し訳ない気持ちがしたんです」

サハリン(当時の南樺太)で生まれた喜和子さんは国民学校5年生で終戦を迎え、ソ連軍からの侵攻を逃れて家族と共に命からがら引き揚げた。その時、生き別れになってしまった叔父とはそれきりだ。一家は青森県弘前市に落ち着き、喜和子さんはミッションスクール卒業後に就職した三沢米軍基地で、後の夫となるチャールズさんと出会う。チャールズさんのひと目ぼれだった。

「父は明治の人でしたから、本当に厳しかった。もちろん反対でしたよ。祖父は『敵国の鬼と結婚など!』と、勘当の1歩手前でした」。その後、父は夫の人柄を知るにつれ、彼を認めてくれるように。「夫は、困っている人がいたら黙っていられない、そんな人だったので。それでも『日本人だったらなぁ』と言われたのは、本当に悲しかったけれど……」

チャールズさんは米軍を退職後、夢だったガソリン・スタンドを開業した。ところが、人の良さが災いし、事業はうまくいかず倒産。莫大な借金だけが残された。「父に手紙を書いて相談したら、こっぴどく怒られました。『自分が選んだ道で、自分が選んだ人といて、失敗したからって泣きついてくるな』と」。喜和子さんは掃除婦の仕事を始めた。子どもが学校にいる間にできる仕事と言えば、当時はそれしか思い付かなかった。勤め先となったのは、レドモンドに住む医師の自宅。その医師とは30年以上経った今でも交流が続く。「本当に良くしてもらって。同じクリスチャンというつながりが、かけがえのない人間関係を作ってくれました」。借金は無事完済。チャールズさんが亡くなって16年経つが、教会というコミュニティーの中で、寂しさを感じることはない。

喜和子さん右から2番目と貴久子さん右端は教会の聖歌隊としても活動している

取材中、「よく頑張ってきたよね、私たち。夫も『You should be proud of yourself』 ってよく言っていたもの」と、喜和子さんがしみじみとつぶやいた。今の若者には想像もできない体験を乗り越えてきた人の、骨身に染みる言葉と笑顔だった。