如月会での活動
「最初は、どこにでも日本人がいるので驚きました。シアトルには日系人のコミュニティーがあるので、これもやらなきゃ、あれもやらなきゃで、すぐに週末がなくなってしまいました」
シアトルには戦後に来た日本人女性で形成された婦人会、如月会がある。知人に誘われて、集会に行ってみた。ツチノさんにとって、初めての日系人の集まりだった。「それまでは日本人なんて周りに誰もいませんでしたから」。当時のシアトルの日系人社会はやや複雑な人間関係の様相を呈していたようだ。「2世の人たちとは、社会的なつながりがありませんでした」と、ツチノさんは振り返る。「アメリカ人との結婚で来たことを、悪く言っている人たちもいたと聞きます。戦後組は、意見がはっきりしていて気が強かった。それが、昔の日本人の感覚を持っていた2世の人たちとは合わなかったのかな」。シアトルほど日系人の結束が強い社会は少ない。だからこそ、新しく来た「戦争花嫁」たちがなじむのには時間がかかったのだろう。
「だからあの頃は、如月会での行事を大切にしていましたよ。100人以上の家族が集まって、テーブルにごちそうを並べて。運動会もしました」。日本文化を残したいと、演芸部を立ち上げたツチノさんは、舞踊の先生にお願いして踊りの稽古も始めた。着物を作りたいと言ったら、ほかの日系の先輩から生意気だと思われたこともあったそう。それでも8枚の着物と帯、扇子を日本から注文し、活動を続けた。
シアトル敬老ナーシングホームでの社会奉仕活動も始まった。日系2世によって、高齢になった1世のために開設された施設だ。以前は断られたこともあったが、それまでになかった父の日慰問を行うアイデアが認められた。「移転後の再オープン日には、如月会も手伝ってくれと言われて。みんな若くてね、張り切っていましたね」。その後、ツチノさんは10年以上もの間、敬老ノースウェストの美容室でボランティアとして働いた。
マイクさんの退職後は、ふたりでソフトウェア会社を設立し、1999年に売却。現在はサマミッシュに住む。日本で変わり者と呼ばれたツチノさんは今、「世の中ってなるようになっているんだなって。そう感じます」と語る。「この国に来て、誰かの手助けがいくらかでもできる立場になれたことが本当にうれしい。日系の先人たちは日本人の辛抱強さをアメリカに根差してくれた。じゃあ私たちはって振り返ったら、本当の意味でアメリカ家庭に入り込んで、日本文化を目に見える形でアメリカ社会に広めることができたんじゃないかと。今からの若い人たちは何を残してくれるんだろうか。自由に行き来できるようになった今の社会で、何を成し遂げてくれるかなぁ、と考えています」。ツチノさんからの大きな課題が、次世代に託されている。