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演歌はいつから北国のイメージになったのか?

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して Vol.8

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第8回 演歌はいつから北国のイメージになったのか?

演歌というと真っ先に思い浮かべる歌は何でしょう。今でこそ、特に若い演歌歌手は地域性にとらわれない演歌を歌うことが多いですが、それでも演歌というと北国を思い浮かべる人は少なくないと思います。

演歌のヒット曲で北国をテーマにした曲は、美空ひばりの「リンゴ追分」(1952年)、北島三郎の「なみだ船」(1962年)、都はるみの「北の宿から」(1975年)、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」(1977年)、細川たかしの「北酒場」(1982年)など、挙げればきりがありません。実は、演歌と北の結び付きには、前回の当コラムで紹介したカラオケの登場が深く関係しているようです。

演歌のジャンルとしての成立は1960年代の後半、カラオケは1970年代にスナックなどお酒の席の余興として登場したのが始まりですから、演歌は初めから北国のイメージをまとっていたわけではなさそうです。ご当地ソングと呼ばれる、地域をテーマにしたり題名に掲げたりした演歌の楽曲の中には、春日八郎の「長崎の女」(1963年)や都はるみの「アンコ椿は恋の花」(1964年)など、南をテーマにした曲も多くありました。では、なぜカラオケが演歌と北国を結び付けたのでしょうか。これにはいろいろな要因があるようです。

1970年代に入って若者へ向けた新しい音楽のジャンルが勢いを増してきたことへの対抗として、中年世代の主にサラリーマンたちが「懐メロ」の中でも特に感情に訴えかける演歌を好んで歌ったというのがまずひとつ。加えて、当初のカラオケはサラリーマン客とスナックの女性従業員が一緒に歌うことも多く、お酒やかなわぬ恋などをテーマにした曲が多い演歌がおのずとよく歌われたとか。そこへタイミング良くヒットしたのが「北の宿から」と「津軽海峡・冬景色」で、これらの楽曲が演歌は北というイメージを定着させたと考えられています。

ところで、互いに対抗するはずのニューミュージックと演歌がコラボレーションした画期的な曲があります。森 進一の「襟裳岬」(1974年)です。北海道の太平洋側に突き出した岬を歌ったこの曲を作曲したのは、吉田拓郎。アルバムからシングルカットして1972年にリリースした「結婚しようよ」を大ヒットさせた、ニューミュージックの立役者です。また、作詞は多くのフォークソングを手がけた岡本おさむが担当しました。この曲以前、歌詞にコーヒーカップが登場する演歌があったでしょうか。カラオケブームが演歌=北というステレオタイプ化に影響を及ぼすその前に、演歌とフォークソングが手を結んだ北国の歌が大流行しているのは何とも興味深いことです。

坂元 小夜
横浜生まれ東京育ち。大学院進学のために2015年に渡米。2020年よりロサンゼルス在住。南カリフォルニア大学大学院の博士課程にて日本の戦後ポピュラー文化を研究。歌謡曲と任侠映画をこよなく愛する。