Home 観光・エンタメ 晴歌雨聴 ニッポン歌を探して 踊るニッポン〜晴歌雨聴〜ニ...

踊るニッポン〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して Vol.13

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第13回 踊るニッポン

夏も終わりに近づくといつも思い出すのが、子どもの頃に毎年楽しみにしていた夏祭りです。屋台でゲームをしたり綿菓子を買ったり。浴衣を着るのもうれしかったし、何より夜薄暗くなっても外で遊んでいていい、というのが子ども心にとてもワクワクしました。そんな夏祭りの記憶をたどると耳によみがえるのは、もちろん盆踊りの音楽。東京育ちの私は、盆踊りと言えば「東京音頭」です。恥ずかしくて人前で盆踊りを踊れない子どもでしたが、「ヤートナ、ソレ、ヨイヨイヨイ」のところで頭上に両手で丸い月を作るような振りを密かに練習したものです。

この東京音頭が作られたのは1932年。作曲は中山晋平、作詞が西條八十という、1929年の同名映画の大ヒット主題歌「東京行進曲」と同じコンビです。まず、丸の内町内会がレコード会社の日本ビクターに依頼し「丸の内音頭」が作られました。その後、レコード会社主催による踊りの講習会が東京各地で開催され、また歌詞に武蔵野など東京の地名を取り入れて丸の内以外の住民も歌えるように東京音頭として改変すると、大流行に発展したとか。当初、レコード歌謡曲は映画主題歌とセットでヒットを生み出すことが多かったのですが、東京音頭のようにレコード会社によって歌と踊りがセットで企画されたのはこれが初めてだそうです。

当時はダンスホールの大ブームの最中でもありました。実は、踊るという行為は戦前の日本において娯楽文化の重要な部分を占めています。ちなみに、この曲の大流行を通して、やぐらを囲んでみんなが同じ振りをそろって踊る、という盆踊りの形式が定着しました。戦前に大ヒットしたこの曲は、もともと1番から10番まである長い曲でした。しかし、戦後の連合国軍による思想取り締まりの対象となり、天皇や神を賛美しているような歌詞を削除するよう要請があったことから、現在の5番構成に変わりました。

この夏に行われた東京五輪の閉会式では、北海道のアイヌ古式舞踊や沖縄のエイサーなどの踊りの映像が紹介された後に東京音頭が流れ、外国の選手たちも見よう見まねで楽しそうに踊る場面がありました。およそ90年前に一町内会のお祭りのために作られた曲が、国際的なスポーツの祭典で日本の踊りのシンボルとして採用されるなんて、当時の人々は想像したでしょうか。

外国に住む私にとって、夏祭りと盆踊りが呼び起こすふるさとへの懐かしさはひとしおです。来年の夏こそ、日本の夏祭りで東京音頭を踊ってみたいものです。

横浜生まれ東京育ち。大学院進学のために2015年に渡米。2020年よりロサンゼルス在住。南カリフォルニア大学大学院の博士課程にて日本の戦後ポピュラー文化を研究。歌謡曲と任侠映画をこよなく愛する。