シニアがなんだ!カナダで再出発
在シアトル日本国総領事館に現地職員として39年間勤務した後に、2013年定年退職した武田 彰さんが綴るハッピー・シニアライフ。国境を超えるものの、シアトルに隣接する都市であるカナダのバンクーバーB.C.で過ごす海外リタイアメント生活を、お伝えしていきます。
少年時代の浅はかさ
演歌歌手、大月みやこの1992年レコード大賞受賞曲「白い海峡」の歌詞に、「人はみな故郷が恋しくなって一度は泣きに帰るもの」とある。若い頃は田舎と小ばかにしていた故郷に郷愁を覚えるのはなぜだろう。そして、忘れられない子ども時代の思い出ほど苦く、切ない。
生家は琵琶湖北西の安曇川町、今の県道558号線脇にあった。家の隣に神社があり、広い境内で幼なじみの仲間とかくれんぼ、ビー玉やめんこ遊び、缶蹴りと、日が暮れるまで遊びほうけた。自転車屋の娘でいつも笑顔のFちゃん、旅館の息子でライバル的存在だったMくん、そして家が駄菓子屋のSちゃんなど。年上のSちゃんとは、境内を流れる小川で草陰に潜む魚を取って遊んだ。自分もまねて草陰を棒で突いてみるも、なぜか魚が出てきてくれないのだった。
ある日、Sちゃんと一緒に魚つかみを終えての帰途、収穫がなくてイラついていた私は、神社の境内で仲間と遊んでいた年下の男の子をからかった。何を言ったか覚えはないが、彼は私めがけて突進し、石ころで私の額をたたいた。額は2センチほど割れ、血まみれになって泣きながら家に帰った。それを聞いた父親は彼の家に一目散。偶然にも、彼は父親の部下の息子だった。私は内心、「自分に逆らうからだ。ざまあみろ」とほくそ笑んだ。しかし、後に物事の善悪が意識できるようになると、「私が彼をからかわなければ、こんなことは起こらなかったのに」と、懺悔の念に駆られた。今も残る額の傷跡を見るたびに思い出す。
父の建設業が成功すると、その本拠となった江若鉄道安曇川駅の横の土地に家を建て引っ越した。小学6年生になると、大人っぽいHくんと、美少女のYさんが転入してきた。Hくんは成績抜群で、落ち着いた言動は私の憧憬の的となった。あとから、彼は一流大学を出て電力会社で責任ある役職に就いたとネットで知り、さすがとうなずいた。Yさんには気後れして近付けず、遠くで眺めるうちに小学校卒業。ふたりとはもう会えないような気がして、子ども心に切ない思いを経験した。
中学に上がると環境は一変。詰襟の学生服となり、突然大人の仲間入りをした気がした。身長も伸び、クラスで2、3番の背の高さになったのもうれしかった。ただ、勉強は難しくなり、良い成績が上げられずにいた。新クラスでは、刈り上げおかっぱ頭のK女史が目立った。テストはいつも100点。たまに98点を取ると腑に落ちないのか、顔を曇らせていた。私は「自分にはとても無理」と悔しがった。その悔しさが幸いしたのか2年生になると「自分も100点が取りたい」と一念発起。毎日の予習、復習に加え、中間・期末試験前の2週間は計画を立ててさらに奮闘。結果は即座に表れ、時々100点が取れるようになった。試験問題のヤマ当てもコツのようなものが身に付き、2年次末にはオール5をもらって目標達成。人生の中でも最も頑張った時期のひとつだ。でも、その自己満足が災いしたのか、高校での成績は下降の一途。これはまたの機会にお話ししよう。