シニアがなんだ!カナダで再出発
在シアトル日本国総領事館に現地職員として39年間勤務した後に、2013年定年退職した武田 彰さんが綴るハッピー・シニアライフ。国境を超えるものの、シアトルに隣接する都市であるカナダのバンクーバーB.C.で過ごす海外リタイアメント生活を、お伝えしていきます。
自分は人と違う?
昔から人と違うことをしたがった。「自分は人と違う」と考えることで自尊心を満たしていたように思う。世に出た人物は概して「変わり者」が多い。文豪、芥川龍之介は奇行の数々が世間に許容され、尊敬さえ集めていた。アップル創始者のスティーブ・ジョブズは型破りの性格なるも天才と崇められている。自分の場合、ひとつのことに没頭するタイプではないし、人と違うことをするのは都合の良い時だけ。人と同じことをしたほうが楽な時はそうする、というずるさがあった。小学生の頃、教師からは「素直な性格」と言われたが、それは生きる術として「いい子」、「イエスマン」ぶっていたからだ。本当は「自分勝手」、「いじわる」、「はた迷惑」な性格も持ち合わせていた。
中学生の頃、帽子は頭髪に残る跡を気にして折あらば脱いだ。クラスメートに「都会的」と思わせたくて、流行に合わせて学生服のズボンの裾を広げたり狭めたり。「また?」と面倒がる母にその都度ミシンを踏ませた。高校に上がると『平凡パンチ』を読んでは、都会でもてはやされていたデザイナー服を買いあさった。田舎で「アイビールック」を気取り、月々の小遣いを使い切った。なんと浅はかな青春か。
大学4年生になると、クラスメートは就活に動き始めたが、自分は面倒だったのか、それとも自立心が芽生えなかったのか、無関心だった。「自分は人と違う」という意識もあり、「出る杭は打たれる」式の日本社会で生きる窮屈さを薄々感じるようにもなった。大学卒業後は数年、父が持っていた京都のレストランを手伝っていたが、無責任にも友人3人との欧米移住の話に躊躇せず乗った。
具体的な計画もないまま、ギリシャのミコノス島で日本食レストランを開こうと、親が止めるのも聞かず1973年11月に日本を出発。まさに若気の至りだ。観光客のいないミコノスの冬、暇つぶしをしながら労働ビザを待つ間に、わが計画は予算と共に先細り。そこで、国際機関の誘致に力を入れていたオーストリアのウイーンに北上し、就活することに。ウエーター経験のあった自分は日本食レストランの仕事がすぐ見つかった。しかし、ほかの3人は働き先が見つからずに解散。私とアメリカ人の友人は帰国せず、日本で知り合った唯一の友人を頼って米国シアトルへと向かった。
海辺の街、ポールズボーで住み込みの仕事に就いた友人に同行したものの、労働ビザのない自分はロッジの桟橋から魚釣りをする毎日。懐もさびしくなり、ウイーンに戻ろうかと考えていた頃、当時唯一のシアトル日系社会の情報源『北米報知』紙に日本国総領事館での現地職員募集の告知が出た。友人に尻をたたかれて面接に行くと、英語分野の学歴が功を奏してか採用となった。
それまでなんとなく生きてきた無責任な、わが「人と違う」人生。日本を出ずにいたら、ほかに生きる道を見つけていたのだろうか。今は幸運だったと思うようにしている。