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菅沼秀夫さん〜宏徳エンタープライズ CEO兼エージェント代表

1992年、日本人向けに不動産を中心とした各種サービスを提供する宏徳エンタープライズが誕生。2代目社長として同社を率いる菅沼秀夫さんは、熱心なスポーツ愛好家、日系社会での功労者、そして良き家庭人としての顔も持ちます。しかし、成功の裏で人知れず苦労も重ねていました。少年時代の葛藤を乗り越えた今の思いを語ってもらいます。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

菅沼秀夫1969年生まれ。父親の転勤に伴い1歳で渡米し、小3で日本に帰国したが、高校から再びシアトルへ。ワシントン大学を卒業後、他社への就職を経て2000年に宏徳エンタープライズに入社し、仕事と両立しながら2007年にはMBAも取得。2020~2022年の3年連続で、北米における功績のあるエージェントに授与される「ファイブ・スター・プロフェッショナル」を受賞。オフィスからスープの冷めない距離に自宅を構える。

宏徳エンタープライズ▪️1992年に不動産に関する各種サービスを提供する会社として設立。後に日本人を対象とした不動産の売買、賃貸、管理などを行うワシントン州公認不動産会社として稼働。2020年からは商業物件も取り扱う。「いつも、あなたの暮らしの一番近くに」をモットーに、24時間緊急時対応や日本語不動産セミナーの開催など、各種無料サービスも実施。Kohtoku Enterprise, Inc.☎425-644-7437、info@kohtoku.com www.kohtoku.com

日米を行き来した末にアメリカ永住を決断

シアトルに住む日本人なら、宏徳エンタープライズの名を1度は耳にしたことがあるだろう。そのオフィスは瀟しょうしゃ洒な一軒家で、レーニア山を一望できる小高い丘の上に建つ。実は同社創業者で菅沼さんの実母に当たる、菅沼愛子さんの自宅でもあり、1階は全てオフィスとなっている。「家は誰にとっても大きな買い物。緊張せずにアットホームな雰囲気で不動産の話ができるミーティングの場を作りたかったのです」と、菅沼さん。こういうところに、日本的なきめ細かいサービスに定評のある同社の姿勢が表れている。

菅沼さんは東京・中野で生まれた。1歳の時、転勤が決まった三井物産社員の父親に帯同し、帰国までの8年間をシアトル、ポートランドで過ごした。日英両語で社長業をこなす菅沼さんだが、語学の習得には大変苦労したと言う。「小3で日本に戻った時、日本語が全くできなかったんです。漢字テストは1問も答えられませんでした(笑)。でも、先生には『ここからやっていけば大丈夫』と言われ、おかげで楽しく学校に通っていました」

東京の自宅で初節句を迎えて

むしろつらかったのは、アメリカに戻り、高校に入ってから。テレビをつけてもニュースの英語が理解できない。「なにしろ、小3から高1に飛び級したようなものですからね。最初に仲良くなったのは、ESL(現在のELL)のクラスメートだった中国人、レバノン人、ベトナム人でした。彼らの存在には救われました」。日本帰国時は、区立の小学校に転入する前の半年間、帰国子女専門の学校に通った。アメリカに戻ってからの高校時代は、午前は通常授業、午後は別の高校でESLという二重生活を1年も強いられた。語学のサポートを受けるためとはいえ、過酷なスケジュールだ。土曜日にはシアトル日本語補習学校もある。しかし、持ち前のチャレンジ精神と天性の愛される人柄で、やがて新しい環境にもすっかりなじんでいった。補習学校では、生徒会長も務めた。

サッカー好きだった6歳の頃胸にはシアトルサウンダースのロゴが

ベルビューのニューポート高校を経て、ワシントン大学では経済学を専攻。やがて、卒業を控えた菅沼さんは、ビザの関係で、アメリカには残らず日本での就職の道を探し始める。時代はバブル末期、日本企業は積極的に帰国子女採用に乗り出しており、菅沼さんは名立たる企業からラブコールを受けた。ところが運命のいたずらか、グリーンカード(永住権)の抽選が当たる。「日本で働きたければ、また次がある。でも、グリーンカードを一度放棄したら、もうチャンスはめぐってこないだろう」。そう考えた菅沼さんは、内定を蹴ってアメリカに残ることを即決した。

 

シアトル時代はカブスカウトにも所属
クリスマスツリーの前で今は亡き幼なじみのボーさんと5歳の頃に撮影

大切な人たちの死とハンディキャップを乗り越えて

父親が肺がんを患って帰らぬ人になったのは、菅沼さんが高3の時だった。「ヘビースモーカーではありましたが、テニスもしていたし、健康そのもので心臓も非常に強かった。そんな父でも、と思いました」。菅沼さんは、日本から6年ぶりにアメリカに戻った頃、幼なじみの死にも遭遇している。「来週はスキーに行こうね、と約束をした矢先の出来事でした」。幼稚園の頃から仲良くしていた親友。家族ぐるみの付き合いで、日本に帰国してからも互いを訪ね合う仲だった。その少年が15歳で、翌週の約束を待たずに突然この世を去ってしまった。雪山での遭難事故だった。

両親と一緒に父親の宏之さんはこの8カ月後に他界

多感な年頃に大切な人をふたりも失った菅沼さんなりに、大人になって心に決めたことがある。「人生、いつ終わるかわからない。先延ばしせずに、会いたい人にはすぐに会うように心がけています。誰かから久しぶりに連絡があったら、『今度会おう』ではなく、『何月何日に会おう』と返事をします」。50代を迎えた菅沼さんの耳には、近しい人たちの訃報も少なからず届く。この決意の重みをますます実感していることだろう。

菅沼さんにとって大きな試練はそれだけではなかった。生まれた時から左腕の肘より先がない。社長としての激務をこなすだけでなく、スキー、ゴルフ、テニス、ラグビーも相当な腕前のスポーツマン。そう聞くと、ハンディキャップを抱える姿は想像できないかもしれない。「小さい頃は、やはりつらかったです。片腕の自分を見せたくない、という気持ちもありました」

車社会のアメリカと違って、日本で生活していた頃は外を歩くとジロジロと見られる。それが嫌だった。「鏡を見て、『自分はどうしてこうなんだろう』と思い悩んでいた時期もあります」。水泳教室にしても、真っすぐに泳いでいるつもりが、どうしても曲がってしまう。自分は人と違うんだ。そう認めざるを得なかった。「自分はまだいいんです。『じゃあ、どうやって直していこう』と考えるのに必死でしたから。でも周りで見ていた家族、特に母はつらかったのではないでしょうか」

昨シーズンシアトルシーウルブズでプレーしたラグビー元日本代表の山田章仁選手と共に山田選手の住まい探しは菅沼さんが手伝った

初めは右打ちだったゴルフも、テニスのバックハンドと同じように左打ちに変えてみた。「いろいろなことをやっているうちに、自分でどうしたらいいのかがつかめてきたような気がし、やるからには五体満足の人と同じレベルでやりたいと強く思うようになりました。そのためには、普通とは違うやり方をしないといけない。そういうチャレンジは好きでした」。なかなか言えることではない。現在、地元ラグビー・チームに所属している菅沼さんは、相手チームから「ハンディキャップがあるように接すると、こちらが逆にやられてしまうよ」と言われるくらいの実力の持ち主だ。

菅沼さんは地元の日本人チームシアトルラクーンズに所属写真は練習後に仲間と
日本開催の2019年ラグビーW杯を観戦対スコットランド戦で勝利し日本代表チームが決勝トーナメント進出を決めた瞬間

大好きなアメリカで日本の良さを実感

アメリカで不動産ライセンスを取得後、中堅の不動産会社で経験を積み、母親の立ち上げた宏徳エンタープライズの事業拡大を機に、菅沼さんはエージェントとして正式に入社する。それが2000年のことだ。同社のモットーは、「買ってからのお付き合い」。家は長年住んでいると、大小さまざまなトラブルも発生する。水漏れや屋根のふき替え、暖房の不具合、貯湯タンクの交換など、連絡があれば真っ先に駆け付ける。「『買っておしまい』ではなく、そこから長いお付き合いを始める、というのがわが社のスタンスです」

2020年春を境に世の中はパンデミックに突入するが、ロックダウンを経験しても、シアトル近郊の不動産マーケットは予想に反して活発な動きを見せた。6名ものエージェントはそれぞれ独立した存在で、販売に応じたコミッション制。もともとオフィスに出勤する必要はない。ただし、コロナ禍ならではの苦労も。「現在は解除されていますが一時期は不動産協会の制約があり、たとえば物件の内見・内覧で今までのように車で一緒に回れなくなり、案内するにも人数制限の関係で最初に奥さま、次にご主人というように、おひとりずつのため倍の時間がかかりました」

実母の菅沼愛子さんは、ひと言で表すと「責任感がとてつもなく強い人」だそう。どんなことにも親身になって問題を解決する、そんな母の姿を見ながら育った菅沼さんが何よりも大切に思うのは、日本人ならではの礼儀や挨拶、そして相手を信頼する気持ちだ。「アメリカは大好きです。ただ、何でも書面にしておかないとあとで痛い目に遭うことも多いですよね。それが日本人同士だと、『約束するよ』と言えば、お互いに必ず守りますから。そういうところに両国の文化の違いを感じます」。アメリカ暮らしの長い菅沼さんだが、伴侶に迷わず日本人を選んだのは自然な流れだったのかもしれない。日本で出会った祐理さんと遠距離恋愛の末、結婚。一女にも恵まれ、日本語の学校やおけいこの送迎など、父親として忙しい日々を送る。

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最後に今後の抱負を聞いた。「母の時代には不動産の売買がメインでしたが、今は総合管理の仕事も増えました。また、時代に即したオンライン・マーケティングや商業物件への展開も視野に入れています」。創業30年目を迎え、2023年春には1階のオフィスに加えて、2階にラウンジ、3階にゲストルームを新たに開設し、一軒家全てが宏徳エンタープライズの営業の場となる計画もある。文字通りの親子二人三脚で現在の地位を築き上げてきた宏徳エンタープライズ。IT産業の中心地としてだけでなく、小売業や医療分野でも目覚ましい発展を遂げ、大きなポテンシャルを秘めるシアトルで、業界先駆者として、これからも日本人コミュニティーを支えていくことだろう。

 

 

 

 

◀︎宏徳エンタープライズで取り扱っている一般住宅の例

シュレーゲル 京 希伊子
フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダにも居住経験があり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。