Home インタビュー 川崎和博さん〜エバーグリー...

川崎和博さん〜エバーグリーン州立大学名誉教授

画家を目指し、22歳で海を渡ってから早60年。かつて前衛芸術に引かれた青年は美術史家になり、教壇を離れて20年経った現在は「人生を楽しむこと」に新たな境地を見出します。時折英語が交じりながらも、美への飽くなきこだわりを語る川崎和博さん。穏やかな笑顔の中に、アートへの熱き思いがあふれます。

大学時代に描いた絵は今も2枚残る。右が大学1年、左が大学4年次の最後の作品

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

川崎和博
1942年、宮崎県生まれ。九州大学医学部を中退して上京後、4年間はイラスト描きなどをして生計を立てる。父親の紹介でアメリカ人の商談に同行し、その縁で1965年にシアトルへ渡る。ショアライン・コミュニティー・カレッジからワシントン大学に編入し、油絵画家を志すも、美術史に転向。1972年に修士号を取得し、モンタナ州立大学で助手を務めながら、1975年に博士課程満期退学。1976年からエバーグリーン州立大学で約30年にわたり美術史を教える。その間、調査研究のため、金沢に2年、パリに1年滞在。2004年に退職してからは、世界各地を旅行し、趣味の料理と美術、野菜作りを楽しむ毎日を送る。
無一文で上京し、前衛芸術に傾倒

川崎和博さん(以下ヒロさん)の自宅には、40年以上かけてコレクションした絵画が整然と並ぶ。時代や作風も異なる多彩なジャンルの美術品は、吸い込まれそうな迫力の抽象画、フランス人画家による繊細なタッチのリトグラフ(石版画)、ポップアート、知人の画家やかつての教え子の作品、浮世絵、さらには大のお気に入りだという在米日本人アーティストによる竹細工の花器までそろう。リビングルームで読書をしながら、ソファーの正面に飾っている抽象画と対話するのが日課だ。

▲廊下からリビングルームまで、まるでギャラリーのような自宅。飾る絵は定期的に入れ替えるそう

また、リビングルームの一角を埋め尽くす観葉植物は、柔らかな光をいっぱいに浴びて、生き生きとした表情を見せる。ベランダには苔で覆われた坪庭も。近所の畑で自ら育てた自慢の野菜を料理し、客人に振る舞うのがヒロさんにとって至福のひと時だ。「ディレッタントが僕に喜びをもたらすのです」。

ディレッタントとは、自分の美学に基づき、趣味として芸術をたしなむことを指す。まさに現在のヒロさんだ。初任給で買った絵はスペイン人画家が描いたもので、当時の価格で300ドル。決して安い買い物ではなかった。「価格は問題ではありません。どれだけ毎日の生活を豊かにしてくれるか、それがいちばん大事」。美術は、ヒロさんの人生の糧なのだ。

▲ヒロさん作のボタニカル・アート。ローズヒップやピーマンのほか、しし唐、紫玉ネギなど、収穫した野菜を主役に

若い頃にどっぷりとハマったのは、前衛芸術。自由で未来志向な表現方法に、「何かワクワクするものを感じました」と話す。出合いは1961年、五輪を控え、東京が沸き立っていた時代だ。ヒロさんは現役で九州大学医学部に入学するも、3カ月を待たずに中退。解剖の授業で麻酔をかけたウサギにメスを入れ、ピクッと動いたのを見て気絶してしまったのだ。情けなさで親と顔を合わせられず、勘当同然で東京へと向かった。下町・深川の倉庫を改造した一室で、ヒロさんは前衛芸術に没頭する見知らぬ人たちと共同生活を始める。

ヒロさんも大いに感化された。記憶の底に刻まれた光景がある。同居人に誘われ、開通したばかりの首都高を望む高架橋へ。そこには、純白のウエディングドレスに身を包んだ女性が座っていた。ドレスの裾の周りには、弧を描くように洋裁用のはさみが置かれ、こんなメモ書きが添えられている。「通行人の皆さまへ。このはさみでドレスの裾を切って、その切れ端を家に持ち帰ってください」。迷わず実行したヒロさん。その女性がオノ・ヨーコさんだったらしいと後に判明するが、今となっては確かめようもない。あの繊細なレース生地をジョキジョキ切った時の不思議な緊張感だけは絶対に忘れられない、とヒロさん。「当時の東京は面白かったですよ。日本でも、ネオ・ダダやフルクサスと呼ばれる前衛芸術が盛んで」。帝国ホテルの一室を借り切った個展では、ドアを開けると部屋中にお札のコピーが貼り付けられていた。紙幣の複写は違法だが、「まあ、前衛芸術は、本来そういうものですから」と屈託なく笑う。

▲22歳で画家を目指し、アメリカへ。バンクーバー経由でシアトルに向かう(1965年)

さまざまな職を転々としながら、服飾デザイナーのイラストレーターを務めるなど、貧しいながらも充実した日々を送っていた。ある日、父から手紙が届く。「東京で大したことはしていないのであろう。古くからの知り合いのアメリカ人が商談で訪日するから、同行しなさい」。父からの命令だった。お駄賃も出るというので断る理由もない。来日した彼に、本当は画家になりたいのだとヒロさんが打ち明けると、「絵の勉強をしにシアトルにいらっしゃい」と誘われた。そこで1965年、ヒロさんはイギリス客船に乗り込み、バンクーバー経由でシアトルへと旅立つ。22歳。故郷を後にしてから、4年が経っていた。

別れの挨拶をしに宮崎の実家に戻ると、父親は「そういうことだろうと思っていた」と言う。こうしてヒロさんはアメリカの地を踏み、ショアライン・コミュニティー・カレッジで1年履修後、ワシントン大学に編入。本格的に油絵画家を志すことになった。

ありのままを見つめることこそ美術の真髄

来る日も来る日も熱心に絵を描き続け、腕前も相当上がったが、何かが足りない。「そうだ、僕には絵の才能がないのだ」。ヒロさんは大学4年次にいったん絵筆を置く。それがヒロさんの結論だった。

専攻を変えて間もない頃、カリフォルニアにて。当時のファッションに身を包んで(1970年)▶︎

もう絵の具の匂いを嗅ぐことすら耐え難い。再び失意のどん底に落とされたヒロさんは、心を癒やすためにふらりとサンフランシスコへと旅立つ。着いた翌日には、コーヒー・ショップで女性ふたりと知り合い、掃除や料理を引き受ける代わりに屋根裏部屋に住まわせてもらうことになった。料理は得意だ。ヒロさんは空いた時間に、好きなだけ絵を描いた。締め切りも、周囲の評価も、全く関係ない。「こんなに幸せだった日々は、人生でほかにはありません」

家主はヒロさんの作品に関心を示すわけでもなく、それでいて画材は全て購入してくれた。3カ月が経ち、出席率の関係で大学に戻ったヒロさんは、専攻を美術史に変えた。そこからは美術史家として文人画を中心に研究し、34歳でエバーグリーン州立大学に職を得ると、教え子たちの育成に情熱を注いだ。

◀︎ミレニアムを前に「原始時代の生活を再現しよう」という同僚の歴史家の誘いで、5年かけて髪を伸ばした。2000年1月3日、パリにて散髪

ヒロさんが学生に美術を教えるに当たり、何よりも心を砕いたのは、アンビギュイティー(ambiguity)の本質をわかってもらうこと。「日本語に訳すのは難しいのですが、何も考えずにあいまい(vague)にしておくこととは違うのです。アンビギュイティーはその真逆で、科学のように明確な答えのない事象を追究した結果、到達するもの」

それは描く側も見る側も同じだ。ヒロさんは「美術に携わる者の業」と表現する。人生はアンビギュイティーの連続で、二元論では捉え切れない。その状態を面白がることは、学ぶ上で必要な心構えだとヒロさんは力説する。

パリのモンマルトルにある、ピカソのアトリエ跡地を訪問(1996年)▶︎

「どうして自分はこの絵に引かれるのか、答えを自分で見つけてほしい。美術には、宗教、政治、経済、その時代の全てが映し出される」。画家の生きていた世界と画家自身の人間性が反映されている、そういう視点から絵を通して自分自身を見つめる作業。答えは、自らが手探りで探らなければならない。それは教える側にも言える。

「たとえば、これが答えだと教えてしまうと、やること全てがそれに向かっていく。何かを学ぶのに答えを求めてはいけない。そうでなければ学ぶ意味がありません」。その瞬間、ありのままの自分を見つめること。それが答えであり、美術の真髄なのだとヒロさん。かつて絵を描いていたからこそ出る言葉なのだろう。「どう表現できるかは、描いてみないとわかりません。頭の中で思っていてもダメ。描いているうちに、色、絵の具、筆、キャンバスが反発してくるから。これは、自分と画材との闘いです」

絵と鑑賞者の対峙もまた続く。「モナ・リザはなぜ名画なのか」と、ヒロさんは学生に問う。ヒロさんの見解はこうだ。500年という年月をかけて、大勢の人がこの絵を前に気持ちが揺さぶられ、その気持ちが絵に吸収され、それが作品の一部になる。その数は今後も日に日に増え続ける。モナ・リザは現在も「豊潤さを蓄積するプロセス」にあり、見られ続けることで名画の重みを増していく。

一方、他人の評価や視線に耐えられず、画家の道を諦めた20代のヒロさん。「若い頃の僕は、自分に批判的でした。学者になってからも、自分が他人に与える影響ばかり気にしていました」

エバーグリーン州立大学で教える学生の共同作品の前で。奥右端に立つのがヒロさん(2001年)

実家の温室で絵を描く日々が今につながる

80代となったヒロさんは、そうした葛藤とは無縁だ。誰の目も気にすることなく、好きな絵を描く。数年前からボタニカル・アートも習い出した。

◀︎ヒロさんの父方の祖母、ナツさん(1964年)

ヒロさんが生涯、愛してやまない絵画と植物。その原点は、幼少期にあった。「うちは江戸時代から続く庄屋でしたから、小作人たちが植える苗を管理する温室があったのです。幼い頃は祖母に連れられて、広大な温室で1日中過ごし、絵を描いていました」。3歳頃の記憶がおぼろげにある。「見渡す限り、緑でした。それだけは覚えています」

父方の祖母、ナツさんは、小学校を出てすぐに女中としてヒロさんの祖父の家に奉公に出され、やがて跡取り息子である祖父と結婚。以降も、小作人としての立ち居振る舞いは抜けなかった。母親が病弱だったこともあり、4人兄弟の末っ子だったヒロさんは、そんなナツさんに育てられた。だしの取り方や魚のさばき方を教えてくれたのも、ナツさんだ。

長兄の武典さんと(1958年)▶︎

ヒロさんは5歳の時、色覚異常と診断された。治療のため、宮崎大学美術学部の学生が雇われ、色遊びをするようになった。小学校の入学祝いはクレヨン。昼休みになると、ヒロさんはみんなと校庭に行かず、教室に残って窓にクレヨンで木や川などの絵を描いた。宮崎の太陽に照らされた窓ガラスは、熱い。「描いているうちに、クレヨンが溶けるんです。女中さんがいつもカミソリを持って駆け付け、あとで削っていました」

6年生になると、日本全国からヒロさんを合わせ5人の子どもの絵や習字が選ばれ、返還前の沖縄や香港の学校で展覧会が開かれた。文化交流使としてヒロさんも一緒に現地を回った。1952年、53年のことだと言う。1942年生まれのヒロさんに戦争の記憶はない。ただ、15歳年上の長兄は違う。地元の超エリートで将来を嘱望され、江田島の海軍兵学校へと進み、特攻隊員になる訓練を受けた。しかし、出征を2週間後に控えて終戦を迎え、生きる目標を失ってしまったことで、つらい晩年を過ごしたそう。

父親も、戦争に翻弄されたひとりだ。リベラルな思想の持ち主で、日本の軍国主義に対して批判めいた発言をしたところ、台湾に2年間「島流し」され、満州へと送られた。戦後は、前科者のレッテルを貼られ、事業を続けることもできずに、仕方なく自宅で書道を教えた。ヒロさんの名前は、平和と博愛から1文字ずつ取って、「和博」と書く。日本の家族との手紙は検閲されるが、軍部に悟られないように、命名に戦争反対の思いを込めたのだとヒロさんは後に聞かされた。

戦後、ヒロさんは自由な空気を吸いながら育った。若い頃は女性との同居生活も経験したが、30代半ばで銀行員だったビルさんに出会うと、正式なパートナーとして生涯を共にすることを誓う。芸術を愛し、世界中を旅行する同志だった。そこから40年の歳月が流れ、2021年、ビルさんは闘病の末に他界した。

自宅でビルさんと共にクリスマスを祝う(2018年)

気落ちするヒロさんを見かねて、ビルさんの成人した息子たちがボタニカル・アートのオンライン・クラスに招待する。自分が目指した抽象画は画家の個性ありきだった。しかし、ボタニカル・アートは誰が描いても同じでなければいけない。ヒロさんは、反骨精神がムクムクと顔を出し、実際にはない影を強調するなどして講師からたしなめられる。

ハワイ滞在中、料理の腕前を披露(2022年)

丹精込めて育てた野菜を使い、手作り懐石でおもてなし

「自分の美意識がどこから来ているのか、それを追究したいですね」。まだまだやりたいことはたくさんある様子。そう語るヒロさんの眼差しには、少年の心が宿っていた。

ビルさんと3人の息子、その家族たちと。全員がヒロさんにとって家族のような存在

フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダにも居住経験があり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。