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小田切信之さん〜東レ・コンポジット マテリアルズ アメリカ社元副社長兼シニア・テクニカルフェロー

©️Rick Wong

東レ・コンポジット マテリアルズ アメリカ社のシニア・テクニカルフェローを最後に、退職を迎えた小田切さんは、約40年にわたり素材業界の最前線を走り続けてきました。通算16年のシアトル駐在生活を終え、日本に帰国する直前に、今だからこそ話せる炭素繊維の開発秘話やボーイング社との提携への道のり、会社人生を振り返っての思い出などを語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

小田切信之■1955年、岩手県生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科の博士前期課程(応用化学)を修了し、1981年に東レ株式会社に入社。複合材料の研究開発に従事する。2000年から2008年まで、東レ・コンポジットアメリカ社(タコマ)に勤務。2015年から再びタコマに赴任し、副社長兼シニア・テクニカルフェローとして陣頭指揮を執る。2021年に東北大学大学院から博士号(航空宇宙工学)を授与。2023年から24年までシアトル日本商工会会長を務めるなど、業界の枠を超え多方面で地域貢献に尽力した。5月末に東レを退職し、現在は日本で第二の人生をスタートさせた。

化学の無限の可能性を夢見て
岩手県盛岡市で生まれ育った小田切さんは、幼少期から自他共に認める「理科少年」だった。愛読書は『子供の科学』。大正時代に創刊され、現在でも刊行されている日本最古の子ども向け科学雑誌だ。小学生の小田切さんは、父親が定期購読してくれたこの雑誌が毎月届くのを楽しみにしていた。「恐竜の世界はどうだったか、宇宙の果てには何があるのか、モノを小さく見ていったらどんな風になるのか。そんなことが書かれていました。好きなページは何度読み返したか、わかりません」。日光青写真を撮ったり、簡単な実験をしたり。「ふろく」も楽しみのひとつだった。
NHK番組「みんなの科学」も毎日欠かさず見ていた。中高生を対象にした内容だったが、小田切さんは夕方になるとテレビにかじりついた。番組では、哲学者のアリストテレスをはじめ、ニュートン、キュリー夫人など、偉大な科学者たちの生い立ちも取り上げられた。そうした「科学史」もお気に入りのジャンルだった。そこには父親の影響もあったのかもしれない。小田切さんの父親は教員で農芸化学が専門だった。岩手が生んだ詩人・童話作家、宮沢賢治も学んだゆかりのある分野で、農業や食品を化学的側面から研究する学問だ。化学を身近に感じる環境で育った小田切さんは、「今で言うSTEM教育を知らないうちに受けていましたね」と話す。
冬の岩手は、マイナス10度の世界だ。小田切さんが通う中学校では、真冬になると、全校生徒が中庭に集まって雪を踏んで固めた。そこにプールから水を引き、一面にまく。何日も繰り返すと地面が凍る。自家製スケートリンクの完成だ。生徒たちはスケート靴を持って朝早くに登校し、スケートを楽しんだ。「体育の授業では、スキー板を背負って近場の山まで行ったりもしました」。小田切さんは懐かしそうに語る。

15歳になると、小田切さん一家は父親を残して横浜に引っ越した。光化学スモッグがピークに達していた70年代当時、化学は「公害をまき散らす世の中の悪だ」とバッシングの対象だった。小田切さん自身も、自宅付近から富士山が見えたことはなかったという。しかし、「公害をまき散らすのも化学なら、公害を解決するのも化学を担う人の役割なのではないか」。化学の力で、世の中をよくすることはきっとできる。そう考えた小田切さんは、大学で応用化学を専攻した。「化学は手品みたいなものです。帽子の中から鳩が出てくるように、何もないところからモノを作り出すことができるのですから。化学の力は無限です」。修士課程に進むと、人工血管などに用いられる医用高分子材料の開発に取り組む研究室に所属し、高分子学会にも度々参加した。そこでひときわ興味を引いたのが東レの研究者の発表だった。通常、民間企業の発表は機密事項などの制約に縛られる。そんな中、東レの世の中の基礎研究領域の促進に役立つ部分は積極的に公開していくという姿勢は、とても魅力的だった。「この会社なら、自分のやってきた研究が活かせるかもしれない」。それが東レを選んだ理由だった。

炭素繊維の開発から
ボーイング社の認定取得まで

東レが炭素繊維の研究に着手したのは1960年代。鉄に比べて10倍の強度があり、何より軽い。そんな夢のような炭素繊維だが、実は古くから存在する。かのエジソンが白熱電球の実用化に用いたのも、京都の竹を蒸し焼きにしてできた繊維(フィラメント)だ。その後、ナイロンやポリエステルなど、さまざまな原料が用いられた中で、大阪工業技術試験所(現・産業技術総合研究所)の進藤昭男博士が、炭素繊維の製造にはアクリル繊維が向いていることを突き止め、特許を取得。既にこの分野で開発・研究を進めていた東レが同試験所からライセンス許諾を受け、1971年に炭素繊維の商業生産が始まった。

しかし社内では炭素繊維の用途が明確に定まっておらず、社員にアンケートを取ったこともあったという。小田切さんが入社する前の話だ。一時期はギターやマリンバなどの楽器も試作した。「それこそ、『屍の山』でしたよ。作ってはみたものの、値段は高いし、このままでは世の中に通用しない」。しかし社内には、この素材は「いずれ大化けするだろう」との期待があった。

折しも時は70年代。石油危機をきっかけに省エネが叫ばれていた時代だ。軽くて丈夫な炭素繊維に目を付けたのは、アメリカのNASAだった。実はNASAでは、スペースシャトルの部材に炭素繊維複合材(炭素繊維に樹脂などを染み込ませた材料)を採り入れており、その性能を測っているところだった。そこに石油危機が重なり、宇宙産業だけでなく、航空業界でも軽量化が死活問題となっていた。商用機の尾翼やフラップなどにも試験的に採用され、炭素繊維への期待は高まったが、5年以上かけて収集された膨大なデータからわかったことは、「炭素繊維複合材は衝撃に弱い」。金属と違って、炭素繊維複合材は衝撃を受けてもへこまず、外側からはわからない。しかし超音波で検査すると、複合材の内部が損傷し、強度が半分以下に落ちていることもあった。これでは主翼、胴体、尾翼など飛行機の主要な構造部材に使えない。それがNASAの報告書の結論だった。

それを受けて、ボーイングは新しい材料の仕様を細かく定め、80年代の初めに公開した。ざっくり言うと、「衝撃を受けた後の残存強度を2倍に上げてくれ」というものだった。すぐに世界中のメーカーや研究者を巻き込んでの競争が始まった。東レも当然、その難題に挑んだが、なかなか解決の糸口を掴めず、壁にぶち当たっていた。そこで少人数のタスクフォースが結成され、31歳の若さで小田切さんがチームリーダーに抜擢されたのだ。入社5年目に訪れた転機だった。「予算は心配するな。何をやってもいい。ほかの誰にも口出しさせない。その代わり、3年以内に突破してくれ」。研究所の所長にそう命じられた小田切さんは、「3年も悶々とするのは嫌だな」と思った、と笑いながら当時を振り返る。
チームに課された唯一の条件が「3カ月は実験するな」。そのため、徹底的に調べて、考えて、議論を尽くした。侃侃諤諤かんかんがくがく の言い合いもざらだった。チームメンバーにはそれぞれ本業が別にあり、集まれるのは夕方から。それにもかかわらず、あっという間に100を超えるアイデアが出た。原理だけではなく製法も考え、「そもそもこの原理は成り立つのか」。そんな議論をしながら、優先順位を絞っていった。そして満を持して最初の実験を行うと、一発目で見事に成功。従来品と比較して、圧縮強度を2倍にできたのだ。それでも小田切さんいわく、「単にコンセプトが証明されただけです」。

異なる環境下でも同じ結果が出るのだろうか。たとえば、熱やアルコールにはどれくらい強いのか。塗料や燃料などの化学物質に対してはどうか。疲労させたり、ねじったりしたらどうか。成形できるのか。機体メーカーが現場で百発百中の確率で部材を作れるのか……。実験が成功した後も、途方もない検証プロセスが待っていた。また、研究所だけでなく、技術、製造、工務、知財、法務、営業、購買など、工業製品に仕上げるまでには、ありとあらゆる部署が関わった。まさに総合力の賜物だ。さらに、信頼できる原料メーカーと提携し、安定したサプライチェーンも構築しなければならない。「100万ピースのパズルうちの最初の1ピースを私たちが埋めただけです」。小田切さんの謙虚な発言には、そうした背景がある。

ボーイングの材料認定を受けるには、それだけのプロセスをすべて積み上げて、FAA(アメリカ連邦航空局)のお墨付きをもらわなくてはならない。しかし、航空機材料に求められる基準は果てしなく高い。ビス一本までロット管理されているのが飛行機の世界だ。事故があった際、どのロットの樹脂を使ったのか、その硬化剤は何を使ったのかなど、あらゆる素原料のロット番号までトレースできること。それが事故原因を究明し、再発防止を可能にするためにFAAが求めている基準だった。「こんなことまで資料にするのか」。汎用材料との大きな違いに、小田切さんは面食らった。

ボーイングが80年代初めに材料を募集してから、14年の歳月が経ち、ようやく777型機が初めて試験飛行したのは1994年のことだ。尾翼には東レの製品が使われた。すでに日本に帰国していた小田切さんに代わり、その日、タコマ駐在の社員がエバレットまで初飛行を見に行った。「行ってきました……。飛びました」。電話の向こうの同僚は感無量だった。胸に込み上げてきた嬉しさを、小田切さんは今でも忘れない。777型機は翌1995年にユナイテッド航空に納入され、就航した。

故郷岩手を彷彿させるノースウェストで
異業種交流に尽力


通算16年の駐在生活で、ノースウェストの大自然を満喫した

1992年、東レはワシントン州タコマに製造拠点となる東レ・コンポジットアメリカ社を設立した。小田切さんは2000年から2008年まで、そして2015年から2024年5月までと、2度にわたり同地での駐在を経験している。最初の赴任では、技術部長という立場もあり、もっぱら社内業務に従事したが、2回目の赴任では副社長とシニア・テクニカルフェローの両方を経験して、社外にも交流を広げていった。さらに、2023年にはシアトル日本商工会(春秋会)の会長にも就任したことで、日米協会とイベントを共催したり、沖縄県人会や日系二世退役軍人の集まりに参加したりなど、「日本にいたら絶対に接点がないような人たちと知り合うことができました」。相手が日本人とは限らない。シアトルという土地柄、ロシア、中国、台湾、フィリピン、ベトナムなど、さまざまな民族や人種を身近に感じながら生活した。「彼らともっと交流を深めたかったですね。それだけが心残りです。きっと多くの発見があったはず」。プライベートでも持ち前の社交性で多くの人と友情を育み、スキー、カヤック、ヨット、テニスのほかに、カニ釣りや松茸狩りなど、ノースウェストの大自然を満喫した。

収穫品のあさり、わかさぎ、松茸

異国に住む日本人として、小田切さんは先人たちへの感謝も忘れない。この地で受け入れられ、ビジネスできるのは、「19世紀後半から海を渡って移住した人たちが、脈々と築いてくれた信頼のおかげ」。今では国の重要文化財に指定された氷川丸も、かつては横浜とシアトルを結ぶ定期船として大活躍した。「その後、戦時中に多くの日系人が強制収容所に送られたことなど、日本の教科書で教えない歴史についても、もっと学ばないといけません」。
タコマ近隣のルイス・マコード統合基地(JBLM)にて

40年以上もの間、ものづくりに携わってきた小田切さんが、一番伝えたいことは何だろう。「『水を飲むときに、井戸を掘った人のことを忘れてはいけない』。何事にも必ず最初に苦労した人がいます」。水脈があるとわかって掘ったのではない。何遍掘っても空振り。でも、執念と努力の末に掘り当てた人がいる。そういう人の存在は忘れられがちだが、それは違う、と小田切さんは語る。「この話をアメリカ人にもするのですが、英語で”Remember those who dug the well.”と言うと、ちゃんと心に届きます」
人の歴史にも、会社の歴史にも、必ず鍵となる出会いがある。「好奇心を持って飛び込んでいくと、芋づる式に人脈がつながっていきます。人との出会いは宝物です」。第二の人生に向けて第一歩を踏み出した小田切さんの挑戦は、まだまだ続く。この先、どんな出会いと発見が待っているのだろうか。小田切さんの興味は尽きない。
▼ルーメン・フィールドでシーホークスの試合を観戦
▼ワシントン州日本文化会館(JCCCW)主催のイベントで桜を植樹。在シアトル日本国総領事やシアトル市長も一緒に
◀︎カリフォルニア州のマンザナー強制収容所を訪ねて
帰途に立ち寄ったアラバマ・ヒルズ

▲日米草の根サミットでマシュー・ペリーさんと。マシューさんはペリー提督の5代目の子孫

米日カウンシルの仲間と共に。左端が小田切さん

親しい仲間に別れの挨拶。小田切さんは、弊誌発行人のトミオ・モリグチとも親交を結んだ

シュレーゲル 京 希伊子
フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダにも居住経験があり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。