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北米報知とたどる シアトルの120年

姉妹紙『北米報知』の前身、『北米時事』が誕生したのは1902年9月のこと。以来、中断もしましたが現在に至り、2022年9月には120周年を迎えます。同紙が見つめてきた、日本、アメリカ、そしてシアトルの歴史の転換点を、当時の紙面と共に振り返ります。

取材・文:楠瀬明子

姉妹紙『北米報知』新年号では1902年創刊時から1920年頃までの北米時事社の様子や記事内容を紹介。併せてご覧ください。
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日米開戦直後も発行を続けた北米時事

これまでに発行された紙面は、北米報知財団とワシントン大学図書館との共同プロジェクトでデジタル化が進められており、アーカイブの一部はオンラインで読むこともできる。筆者は1985年から1999年までの約14年間、北米報知で取材・編集に携わった。その当時の北米報知は、週3回発行。オフィスはインターナショナル・ディストリクトを貫く大通り、S. Jackson St.に面したビルの2階にあり、新聞社に用のある人は皆、階段をトントンと上ってきた。1980年代後半の社内には、手書き原稿を3人のタイピストが打ち込む邦文タイプの音が響き、編集室の壁際の大きな棚には数十年分の新聞が保管されていた。過去の新聞はコミュニティーについて全てを語ってくれる事典のようなもの。記者にとっては宝の山で、新聞発行のたびに大事にファイルしたものだ。

1980年代まで同紙出版に使用されていた活版印刷機と写る現発行人のトミオモリグチ100字ほどの邦文活字版と共にアナコーテスの活版印刷博物館に保管されていたことがわかり新たな引き取り先を探している興味のある方は編集部まで問い合わせをcommunitynapostcom

しかし、北米報知の前身である北米時事のファイルは、社内になかった。「祖父のいた頃のシアトルを知りたい」、「新聞に掲載されたという父の文章を読みたい」と、戦前の記録を尋ねて日本から何人もが訪れたが、残念ながら希望に沿うことはできなかった。北米時事は、ちょうど80年前、1941年12月の日米開戦後も発行を続けたが、新聞社は翌春閉鎖。立ち退きを前に預けた新聞ファイルは、強制収容所から戻ってみるとネズミの巣となっていたのだという。

北米時事誕生の頃

北米時事がシアトルに誕生したのは1902年、日本では明治35年のことだ。シアトルという町は1851年、移住目的の12名の男女、12名のその子どもたちがウエスト・シアトルのアルカイポイント付近に上陸して始まった。シアトル市となったのは1869年。1889年には、アメリカ合衆国42番目の州としてワシントン州が誕生した。

1893年、米中部のミネソタ州セントポールから西へ、ロッキー山脈とカスケード山脈を越えてシアトルと結ぶグレート・ノーザン鉄道が開通。1896年8月には、同社と提携した日本郵船のシアトル航路第1号船、三池丸がシアトルに到着し、華々しい歓迎式典で迎えられた。東洋貿易中継地点としてのシアトルの始まりで、それまで外国船を利用してタコマに上陸していた日本人も、以後は大半が日本郵船を利用してシアトルに向かうようになった。

翌1897年には、アラスカ・クロンダイクで大量の金発見のニュースがシアトルに届く。それまでソーミル(製材所)が主要産業だったシアトルには、アラスカへ向かう船に乗り込もうと人々が全米から集まり、携行資材の調達地としても町は急激に発展した。

中国人労働者排斥法(1882年)が制定されて以降、1890年代のシアトルには日本からの鉄道工夫供給の会社が数社設立されて、日本人上陸者も急増。そのため、タコマに1895年に置かれたばかりの領事館も、1901年にはシアトルに移された。1900年の国勢調査では、当時シアトルに2,990名の日本人がいた。シアトル日本人バプテスト教会(1899年)、日本人会(同)、シアトル仏教会(1901年)、広島県人会(同)、国語学校(1902年)と各団体が次々に発足。こうした状況を背景に1902年9月1日、歯科医・隈元 清を発行人として4名の出資者で北米時事は創刊された。

1919年10月30日付の北米時事下段右の広告は1892年にシアトルで開いた古屋商店のもの古屋政次郎は銀行も設立し大恐慌で破産するまでコミュニティー最大の成功者として日本人社会を支えた

にぎわう日常だったが……

現在、デジタル・アーカイブで読むことのできる最も古い紙面は、1917年12月14日付の北米時事だ。

当時、アメリカは第一次世界大戦に参戦中。1面にはヨーロッパの戦況が、他の面にはシアトルおよび近郊の日本人1,400人の徴兵再登録や北米日本人会が催す戦時バザーの記事が掲載されている。また、行事案内と並び、入港する船の乗客名から、留置き郵便の受け取り人名の記載まで。紙面の半分以上を占める広告にはレストランや商店が多く名を連ね、現在のインターナショナル・ディストリクトに広がる日本町のにぎわいが伝わってくる。「ちん餅つきます」との広告や「冬場は帰朝者が多く(船が)満員に達する恐れあり、前もって申し込みいただけば手続きを行います」とうたうホテルや旅館の宣伝は、12月という季節を感じさせる。全8ページ。クリスマスと正月以外は年中無休という勢いだった。

1906年、シアトルにキング・ストリート駅が完成。翌年に始まったパイクプレース・マーケットには、日本人農家も多く出店した。1909年には、現在のワシントン大学構内を会場にアラスカ・ユーコン太平洋博覧会が開かれ、日本からは渋沢栄一率いる実業団一行がジャパン・デーに出席した。1914年、当時ミシシッピー川以西で最も高いビルとなった38階建てのスミス・タワーが完成。また1916年に、水上飛行機を手掛けたのを最初に航空機製造のボーイング社が始まった。

北米時事の隆盛は、1920年にはシアトルだけで約8,000人にもなった日本人人口に支えられていた。しかし排斥の機運は、中国人に代わって増えた日本人に対しても消えることはなかった。アメリカ連邦議会は1906年、移民法を改定して日本人を帰化不能外国人とした。さらに1908年には日本政府と日米紳士協定を締結。日本の外務省は移民旅券を発給中止とし、数少ない例外を除いては家族の呼び寄せと在米日本人の再渡米しか認めなくなった。

第一次大戦中は需要の激増で労働者が不足するほどであったが、1918年11月の終戦と共に景気は後退。不況の中、排日の機運が再度高まりを見せる。他州に続き、1921年にワシントン州議会でも外国人土地法が成立した。州法の条文は単に外国人の土地所有を禁じているが、1906年の連邦法で帰化を拒否された日本人を明らかなターゲットとした「排日土地法」だった。1923年の州法修正により、アメリカ国籍を持つ未成年の日系人の土地所有も禁止され、子孫への継承の道も途絶えた。

1924年になると新移民法が成立し、7月から施行された。外交官・牧師・教師・商人・旅客・学生と再渡航者を除いては、帰化不能外国人の入国が禁止されるというものだ。そのため、日本の祖父母の元に残されていた子どもは、在米の両親にあわてて呼び寄せられた。また、独身男性も日本から花嫁を迎える最後の機会とあって、駆け込みでの渡米者が多数、シアトルに上陸した。

シアトルの日系人強制収容

1929年秋に起きたアメリカの株価大暴落は、その後10年間も続く世界恐慌を引き起こす。1939年にはドイツ軍によるポーランド侵攻を発端としてヨーロッパが戦場と化し、続いて1941年に日本の参戦による太平洋戦争が始まると、第二次世界大戦の交戦地域はかつてない規模の広さとなった。

戦中、シアトルの航空機産業は一段の飛躍を見た。ヨーロッパ戦線における米軍の主力爆撃機としてボーイング社のB-17 が大量に生産された。また、当時の超大型爆撃機であるB-29 は、長距離侵攻能力を買われ、日本本土への戦略爆撃に使用された。

初期の頃は独身男性がほとんどだったシアトルの日本人社会は、やがて夫婦を単位とするコミュニティーへと変化し、1930年までにはアメリカ生まれが4,000人を超えた。北米時事には英語ページが加わり、1921年には、後の日系アメリカ人市民同盟(Japanese American Citizens League、以下JACL)シアトル支部の前身となる全米初の2世団体がシアトルに発足した。多くの子どもは日本語を学ぶために、毎日午後の国語学校へ通ったが、日本に送られ教育を受けてシアトルに戻って来る者、いわゆる「帰米2世」も少なくなかった。新たな日本人の入国は禁止されていたため、30年代の北米時事では若い帰米2世が記者として勤務。彼らは戦後、北米報知の編集長も務めた。

北米時事は、真珠湾攻撃の翌日に発行人の有馬純雄が逮捕された後も、発行が続けられた。しかし、1942年3月12日の紙面に「本日政府の命令により一時休刊せねばならなくなりました」との挨拶を掲載し、これが北米時事の最後となった。この後、日本人・日系人の強制立ち退きが、3月末のベインブリッジ島を皮切りに、シアトル、レントン、ベルビューと続き、西海岸在住12万人の全米10カ所での収容所暮らしが始まった。

戦後のシアトルと日本人社会

再び活気を取り戻した戦後のシアトルの日系コミュニティーでは天狗クラブの釣果報告や新聞社主催の松茸コンテストも紙面をにぎわせた1954年11月にはコミュニティーからの松茸が航空便で皇室に献上された写真は1955年の松茸コンテストの様子

戦争の形勢が定まると、戦争終結を待たずに1945年1月から人々は収容所を去ることが許されるようになった。人々の帰還が進むにつれコミュニティーは活気を取り戻し、シアトルでは1946年6月、生駒貞彦を発行人、元北米時事の有馬純雄を編集長として、かつての北米時事が週刊紙『北米報知』としてよみがえった。

北米報知はやがて1948年に週3日発行、1949年には週6日発行の日刊に。同年、シアトル日系人会も発足した。1952年に移民国籍法が成立すると日本人の帰化が可能となり、在米日本人の家族呼び寄せが認められ、日本人社会は一段と活況を呈した。

1950年5月、在シアトル日本政府在外事務所としてシアトルに日本政府の代表機関が復活。対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)が1952年4月に発効すると、在外事務所はシアトル領事館に。4年後には総領事館となった。また、横浜・シアトル間の日本郵船の定期航路も1951年10月に再開された。シアトル市と兵庫県神戸市は1957年、姉妹都市提携を行った。

1960年の皇太子ご夫妻のシアトル訪問は渡米前から詳細が連日のように報道されシアトルご到着で最高潮に達した写真はワシントン大学植物園内のシアトル日本庭園で記念の白樺のお手植えをされる美智子妃1960年10月8日付

日米修好通商条約締結100年を迎えた1960年、吉田 茂元首相を団長とする日米修好通商百年記念親善使節団と皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)が訪米。ご成婚後初の外国訪問となった皇太子ご夫妻は、16日間の日程で米国内主要都市を訪問。シアトルへは、イリノイ州シカゴから10月4日にご到着後、日本人社会の熱烈な歓迎を受け、オリンピック・ホテル(現フェアモント・オリンピック・ホテル)前のビクトリー広場での歓迎会、同ホテルでの晩さん会に臨まれた。翌日はワシントン大学植物園内のシアトル日本庭園で桜と白樺の記念植樹の後、ボーイング工場を視察。日航機「シティ・オブ・ロサンゼルス」号で次の訪問地のオレゴン州ポートランドへ向かわれた。

21世紀の世界をテーマにシアトル万国博覧会が開かれたのは、1962年。高さ184メートルのスペース・ニードルが建設され、会場のシアトル・センターとダウンタウンをモノレールが結んだ。白亜のサイエンス・センターの設計はシアトル出身の2世建築家、ミノル・ヤマサキによる。野外ステージを飾るウォール・アートは、戦前の呼び寄せ1世で戦後はシアトルに住んでいた山梨出身の画家、ポール・ホリウチが制作した。日本からは文楽の一行が訪れて公演したほか、姉妹都市の神戸からはシアトル市に梵鐘と鐘楼が贈呈された。シアトルの日本人社会にとって晴れがましさの増す博覧会となった。

■年表

シアトルの日系コミュニティーに関わる主な出来事 日米・世界の主な出来事
北米時事創刊 1902  
  1903 ライト兄弟が初飛行に成功
東洋人帰化禁止法 1906  
アラスカ・ユーコン太平洋博覧会開催 1909  
  1914 第一次世界大戦始まる
スペイン風邪猛威を振るう 1918 第一次世界大戦終結
ワシントン州外国人土地法制定 1921  
  1923 関東大震災
排日移民法施行 1924  
  1929 株式暴落。世界恐慌に発展
  1939 第二次世界大戦始まる
日米開戦 1941  
西海岸在住の日系人強制収容 1942  
  1945 第二次世界大戦終結
  1949 1ドル=360円と定められる
日本政府のシアトル在外事務所開設
(52年領事館、56年総領事館に)
1950  
日本郵船のシアトル航路再開 1951 対日講和条約調印
移民国籍法(マッカラン・ウォルター 移民帰化法)成立 1952  
皇太子ご夫妻がシアトル訪問 1960  
  1961 初の有人宇宙飛行成功
21世紀をテーマに シアトル万国博覧会開かれる 1962  
  1963 ケネディ大統領暗殺
ワシントン州外国人土地法撤廃 1966  
  1969 人類が初めて月面に着陸
  1971 ニクソン・ショックで1ドル=308円に
(73年から変動相場制)
  1975 ベトナム戦争終結
建国200年で日本政府が桜をシアトル市に寄贈 1976  
セント・ヘレンズ山の大噴火 1980  
強制収容への謝罪と補償「市民自由の法」成立 1988  
  1989 ベルリンの壁崩壊
  1995 阪神・淡路大震災
ニスカリー地震でシアトルに被害 2001 アメリカ同時多発テロ
  2007 初のスマートフォン(iPhone)発売
  2008 リーマン・ショックで株価暴落
  2011 東日本大震災 1ドル75円台記録
  2019 中国で新型コロナウイルス感染確認
シアトルで米国内初の 新型コロナウイルス感染者確認 2020  

 

排日土地法、ついに撤廃

1921年からの排日土地法撤廃が実現されるまでには、時間がかかった。戦前の日本人排斥の悪弊であり、日本人の経済活動を制約するこの州法を撤廃するために、シアトル日系人会とJACLシアトル支部は1959年、外国人土地法撤廃運動基金募集委員会を発足させて活動を開始した。しかし、ワシントン州住民投票では1960年、1962年と支持を得られず、3度目の住民投票となった1966年にようやく僅差で勝利となった。それまで打ち出していた「東洋人排斥を目的としたもの」という主張を、「時代遅れのものであり、州の発展・開発を阻害している」との観点に置き換えて有権者に訴え、ようやく得た成果。全米各地のいわゆる排日土地法の中でも最後の撤廃だった。

シアトルへの日本企業の進出も徐々に増え、1960年には日本企業の親睦団体「春秋会」(2002年にシアトル日本商工会へ名称変更)が発足し、1966年にはシアトル日系人会の賛助会員となって地元との連携も強めた。また1971年には、シアトル日本人学校(現シアトル日本語補習学校)を設立し、毎土曜日に幼稚園児から高校生までが日本語で学ぶ補習学校の運営を現在まで担っている。

アメリカ建国200年を迎えた1976年は、シアトルでも祝賀行事が続いた。日本政府からは桜の若木1,000本がシアトル市に贈られ、シアトル日系人会、春秋会、ワシントン州日米協会からの石灯籠3基、シアトル日系人会からの記念碑一基と共に、ワシントン湖畔のスワード公園で贈呈式が行われた。記念碑は、自然石に「祝米国建国二百年祭」と三木武夫首相(当時)の筆文字が刻まれている。

三木首相は前年の1975年、日米首脳会談のための訪米でシアトルに立ち寄っている。その際に北米報知紙上では、「米国留学中に困難に直面した若き日の三木武夫が、シアトル在住の同郷人の助けで学業を続けることができた」というエピソードが紹介された。

1966年11月9日付外国人土地法排日土地法撤廃の成功を報じる記事シアトルでは12月に武士ガーデンで祝賀晩さん会が催され約300人が出席した

1世の高齢化が進むにつれ、これまでの日系史を書き留めておかねばと、コミュニティーが資料・資金集めを担い、1969年に『北米百年桜』(伊藤一男著)、1972年に『続・北米百年桜』(同)が完成。盛大な祝賀会が催された。また、1世の介護施設として、1976年にはシアトル敬老(2019年閉鎖)がオープンした。

北米報知は、1世購読者の減少から1981年7月末で無期休刊を発表。しかし、新聞の必要性を強く感じるシアトル日系人会有志が新聞社を買い取り、北米報知は同年10月から週3日発行として再開された。その後1988年に宇和島屋CEO(当時)のトミオ・モリグチが社長となり、発行回数の変遷を経て2005年に無料紙に変更。現在は、ソイソース同様に月2回、第2・第4金曜日に発行している。

日本企業の進出と地元新産業の台頭

戦後の日本の高度経済成長について、その要因をアメリカの社会学者が分析した著作『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が発表されたのは1979年のことだが、80年代の日本はその言葉通り急激な成長を見せた。

アメリカ進出の日本企業も数を増し、シアトルでは1972年に32社だった春秋会会員数は80年には85社、92年には170社となった。しかし、アメリカへの急激な日本企業進出やニューヨークのロックフェラー・センターなどの不動産取得は反感も生み、米国内にジャパン・バッシングの風潮が生まれた。1989年には運動会競技練習中のシアトル日本語補習学校教師が顔面を空気銃で撃たれる事件が起き、当初はジャパン・バッシングに起因するのではないかと危惧されるなど、人々の暮らしにも影響が及んだ。

なお、ロナルド・レーガン大統領(当時)は1988年8月10日、第二次世界大戦時に敵性外国人として強制収容した日系市民への補償金支払いを盛り込んだ「市民自由の法」に署名し、法律が成立した。これは、JACLシアトル支部の提案が1972年のJACL全米大会で採択され、以後立法に向けて粘り強く続けられた活動が実ったものだった。

日本経済のバブルが崩壊した1990年代以降のシアトルでは、日本の企業関係者の数は減少したが、逆に留学生数は増加を見た。1992年、ルイジアナ州バトンルージュで、ハロウィン・パーティーの場所を間違えた日本人留学生が発砲されて亡くなった事件が起き、シアトルは安全な都市として評価されたことも理由のひとつに挙げられている。

80年代から90年代にかけてはシアトルとその近郊に多くの新しいビジネスの誕生・発展が目覚ましく、それまで林業・水産・航空機産業を柱としていたシアトルのビジネス図を塗り替えることとなった。コーヒーのスターバックス、コンピューター・ソフトウェアのマイクロソフト、会員制ホールセールのコストコ、オンライン・ショッピングのアマゾンなど各社が次々に生まれて成長を遂げ、今では米国内のみならず世界にビジネスを拡張するほどの成功を収めている。一方、他社を吸収合併しアメリカ唯一の大型旅客機メーカーとなったボーイングは、2001年に本社をシカゴに移転。また、航空機製造部門も徐々に他州へ移されつつある。

シアトル地域に根を下ろし発展した新型ビジネスのひとつに、米国任天堂がある。マリナーズ球団に身売り話が持ち上がった1991年にはこの米国任天堂が大きな役割を果たすことになり、人々を驚かせた。「地元シアトルのコミュニティーのため」と球団買収に応じたのが、任天堂本社(京都)社長だったからだ。日本人がオーナーとなることに反発の声もあったが、マリナーズをシアトルに引き止めたい地元は総じて歓迎。最終的には49%を出資して1992年から筆頭オーナーとなり、マリナーズはシアトルに残った(その後、持ち株は2004年に米国任天堂に移り計55%に。2016年には大部分が地元の出資者グループに売却されている)。

このような経緯もあり、マリナーズは大リーグの中では特に日本との接点が多く、これまでに多くの日本人選手が在籍している。その中で特筆すべきはイチローだ。2001年シーズンからの大リーグでは、首位打者2回、盗塁王1回。シーズン最多262安打を記録し、引退までに3,089安打、509盗塁。打って良し、走って良し、守って良し、の三拍子そろったプレーで日米のファンを魅了した。マリナーズの球団殿堂入りに続き、2025年の米国野球殿堂入りもほぼ確実と見られている。イチローの活躍によってシアトルが日本で知られるようになったと言っても過言ではないだろう。

日系のシアトル市長誕生

2019年に中国で新型コロナウイルス感染が広がり始めると、翌年1月には、帰省先の武漢からシアトルに戻って来た男性が全米初の感染者として確認された。それに続いて、シアトル近郊の高齢者施設で感染・死亡者が続出。シアトルは突如、新型コロナウイルスのホットスポットとして全米から注視されることになった。

Photos Courtesy of U.S. – Japan Council
米日カウンシルの2016年在米日系人リーダー訪日プログラムに参加したブルース・ハレル・シアトル市議会議長(当時。後列右から5人目)

やがて感染は全米に拡大。コロナ禍が長期化するにつれ、アジア系住民へのヘイトクライムが各地で報道されるようになった。また、2020年5月にミネソタ州ミネアポリスで起きた黒人男性の死に至る状況が動画で拡散すると、警察への抗議デモが各地で起きた。シアトルでも、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動のデモ隊は一部が暴徒化し、商店を襲ったり警察署を占拠したりの騒ぎとなった。

12月10日に開催されたアジア系アメリカ人初のシアトル市長の誕生を歓迎する祝賀会で演説をするハレル次期市長2022年1月よりシアトル市長に就任

このような状況の下、治安が争点のひとつとなった2021年11月のシアトル市長選挙で、弁護士で元シアトル市議会議員のブルース・ハレルが市長に選出された。ハレル新市長の父方の祖父母は、ルイジアナ州ニューオリンズからシアトルに移住したアフリカ系アメリカ人、母方の祖父母は、1900年代初頭にシアトルに移民した日本人。大都市ボストン(マサチューセッツ州)とシンシナティ(オハイオ州)にアジア系市長が誕生したこともあって、全米メディアはアフリカ系アメリカ人として2人目、かつアジア系アメリカ人として初のシアトル市長誕生に注目した。2022年は、北米時事に始まった北米報知が戦争による中断などを経て迎える120年の節目の年。そして、シアトルに初の日系市長が就任する記念すべき年ともなった。

祖父母はシアトル日本人町で花屋を営み、そこで生まれ育った母は戦中、家族とミニドカ強制収容所での暮らしを体験している。ワシントン大学でアメフト選手として活躍した息子は、卒業後に弁護士となり、シアトル市議会議員を経てシアトル市長に選出。その3代の歴史は、北米時事・北米報知の120年と重なる歴史でもある。

 

北米報知財団とワシントン大学図書館との共同デジタル・アーカイブ・プロジェクト

『北米時事』と『北米報知』の紙面の一部をデジタル保存。誰でもオンラインで閲覧できるようにし、シアトル地域日系コミュニティーの歴史を今に伝えている。北米報知財団ではアーカイブ・プロジェクトへの献金を募っている(https://hokubeihochi.org/donate)。また、ウィング・ルーク博物館に保管されている紙面のスキャン作業を行うボランティアも募集中。詳細は下記まで。
The Nikkei Newspapers Digital Archive (NNDA) https://content.lib.washington.edu/otherprojects/nikkei
問い合わせ:info@hokubeihochi.org